06

 短い秋が終わるまでに、私は「気のせい」に慣れようとした。前と同じように尚輝の部屋のドアをノックし、食事を差し入れながら、何も起こっていないようなふりをして過ごした。実際、何も起こっていないに違いなかった。バタバタという足音も壁を叩く音も幻聴に違いない。夜の間にカーテンを開けたのも、スープをこぼしたのも私で、ただ覚えていないだけなのだ。

(私は一体何を求めているんだろう)

 生活の合間に、私は時々自問した。


 ある夜のことだった。仕事を定時で終えてのんびりしていると、インターホンが鳴った。宅配便でも頼んでいたかな、と出てみると、まりあちゃんだった。

「どうしたの? こんな時間に」

「あの、見浦みうらさんのところって、ガス壊れてませんか?」

 ドアを開けて聞いてみると、どうやらまりあちゃんの部屋の給湯器の調子が悪いらしい。こちらのガス給湯器に異変はなく、どうやら故障は小早川こばやかわ家のみに発生しているらしかった。こんな日に限って、まりあちゃんのお父さんはまだ帰ってきていないという。

 残念ながら、私にはそういった知識がまるでない。給湯器を見ても修理などできないだろう。アパートの管理会社はすでに営業時間を過ぎているから、対応してもらえるのは明日以降になりそうだった。

 そう言うとまりあちゃんは「そう」と困ったような笑みを浮かべた。確かに困った話だ。近所に銭湯などはない。このままだと彼女は今夜水風呂にしか入れないことになる。この時期にそれは辛い。

 私はちらりと部屋の奥を気にした。今日は「気のせい」は静かだ。私は思い切ってまりあちゃんに、

「よかったら、うちのお風呂使う?」

 と尋ねてみた。

 まりあちゃんは「いいの?」と嬉しそうに言ったあと、すぐに「あっ、でも」と真顔に戻ってためらった。私は笑って「弟のことなら気にしないで」と言った。

「迷惑じゃないですか?」

「全然! あいつも私も、いつももっと遅い時間に入るし。それに部屋からめったに出てこないから、嫌もなにもないと思うよ」

 まりあちゃんは戸惑っていたけれど、結局うちのお風呂を借りることに決めてくれた。私もなんとなくほっとした。彼女を手助けできることが嬉しくさえあった。

 少しして、まりあちゃんはタオルやシャンプーを抱えて我が家にやってきた。

「見浦さん、ありがとう。いつもだったら、パパが遅くなる日はお師匠さんちで待たせてもらったりするんだけど、今日はお師匠さんも留守だから」

「ああ、習い事の?」

 そういえば何の習い事なのか聞いてなかったな、と思った。まりあちゃんが浴室に入っていった後、シャワーの音を聞きながら、私は彼女がやりそうな習い事はなんだろうと考えた。目が見えないから音楽関係だろうか、それにしても「お師匠さん」って、ちょっと珍しい呼び方だ。どうしても琵琶法師を想像してしまう。まさかね、と思う。

 そもそも、まりあちゃんの母親はどうしたのだろうか? 以前から気にはなっていた。お父さんが二人暮らしだと言っていたから、離婚か、もしくは死別したのだろう。まだ十一歳で、あんなふうにふわふわ笑ってはいるけれど、まりあちゃんの人生はなかなかに壮絶なのではないだろうか。

(お母さんも視力もなくしたことを、あの子はどうやって乗り越えているんだろう)

 きっとまりあちゃんは、私なんかよりもっとずっと強いのだ。そう思った。


 目が見えなくても、毎日やる作業には慣れているのだろう。まりあちゃんは手早く入浴と着替えを済ませると、浴室から出てきてもう一度私にお礼を言ってくれた。ふわふわの髪がしっとりと落ち着いて、少しだけ大人っぽく見えた。

「ほんとに助かっちゃった。ありがとう」

「ひとりで大丈夫? うちでちょっと待っていったら?」

「じゃあ」と言いかけたまりあちゃんが、突然言葉を切った。顔が居室の方を向き、

「あっ、こんばんは」

 そう言って、ぺこっと頭をさげた。

「……どうかした?」

 私が尋ねると、まりあちゃんはきょとんとした顔をこちらに向けた。

「弟さん、だよね?」

「……弟?」

「そこに……あれ、いないかも」

 まりあちゃんはそう言って首をかしげた。

「弟――いたの?」

 私が言うと、まりあちゃんは「あっ、でも気のせいかも」と笑った。

「誰か向こうから見てると思ったの。気配みたいな……でも外しちゃった」

 けっこう当たるんだけどね、と言って、まりあちゃんは照れくさそうに笑った。目の前の私の動揺には気づいていないようだった。

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