07
「ごめん、やっぱり人が来たからあいつ神経質になってるのかも」と言い訳したとき、私の声は少し震えていた気がする。幸いまりあちゃんは不審に思った様子などもなく、にこっと笑うと、
「わたしもパパが帰ってくるかもだから、やっぱり帰るね。見浦さん、ありがとう」
そう言って、さらっと部屋を出ていった。私は彼女を階下まで送り届け、部屋の前でおやすみを言い合って別れた。背後で施錠する音が聞こえた。
まりあちゃんが帰り、部屋に一人になった後も動揺は続いていた。
まりあちゃんはどうして挨拶などしたのだろうか。自分以外の誰かが尚輝を――いや、「気のせい」を感知したのだとしたら、それはもう私の気のせいとは言えない。
どうしたらいいんだろう。
シンクから洗う前のグラスを取って水を注ぎ、一気に半分ほど飲んで落ち着こうとした。
まりあちゃんはきっと何かを間違えたのだ。本人も言っていたように、さっきのはただの勘違いだったのだ。そう自分に言い聞かせたけれど、胸の中はもやもやとした不安で満ちていた。目が見えないだけに、まりあちゃんの「気配を察する能力」は、普通の人より高いのではないだろうか。もし勘違いなんかじゃなかったとしたら――
ふと、まりあちゃんをすぐに帰してしまったことを悔いた。話をすればよかった。あの部屋にいるのはどういうものなのか、彼女から聞けばよかったのにと後悔した。部屋にいるものが――仮に何かがいるとして、それは本当に尚輝なのかどうか、私は疑い始めていた。
その日、私は尚輝の部屋に声をかけることをしなかった。いっそ外泊したいと思わなくもなかったが、気軽に宿泊を頼めるような友達は思い当たらなかった。昔から付き合いがある子たちとは、私の方から疎遠になったのだ。かといって急にビジネスホテルなどに泊まるのも躊躇われた。今夜この部屋を出ていったら、そのまま気持ちがくじけて、帰ってくることができなくなるような気がした。それに、住居費と食費にお金を割かれているから、数千円といえど出費は避けたい。
結局、私は隣室を歩き回る音を聞きながら一夜を過ごした。浅い眠りのなかでなにか悲しい夢を見て、何度も目を覚ました。
翌日は出社日だったので、普段より早く出勤した。始業時間の四十分ほど前に会社に着いてしまい、案の定オフィスに人の姿はなかった。
朝、尚輝の部屋に食事を差し入れずに出かけてきたことが、ひっそりと気がかりだった。自分の席につき、欠伸を噛み殺しながら自分のパソコンを立ち上げていると、突然「見浦さん」と声をかけられた。
「ごめんごめん、びっくりした?」
弾かれたように振り返ると、パーテーションの横に女性が立っていた。
「あっ、私のこと覚えてます? 総務の
首から提げたネームカードを持ち上げて、彼女はにこっと笑った。その体温のある笑顔に思わず安堵して、私はほーっとため息をついた。
小野寺さんのことなら覚えている。四月に営業部から異例の部署間異動を言い渡されたのは、総務部のテコ入れではないかという噂で、つまりちょっと話題になったのだ。確か私よりも十歳近く上で、役職もついているけれど、若々しくて気さくで、誰からも親しまれやすい人だと思う。
「珍しく早いなと思ったから、声かけちゃった。実はちょっと、見浦さんに確認したいことがあってね……あのさ、見浦さんって今一人暮らし?」
私はとっさに言いかけた言葉を飲み込んだ。そのとき私は思わず、「違います」と言いそうになったのだ。
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