05

 不思議と恐怖はなかった。むしろそんなこともあるだろう、と思った。もっともこれは幽霊のしわざなんかじゃない、きっと私の気持ちの問題だ。

 あのとき音がした理由なんか、後からいくらでも説明ができる。本当は外から音がしたのを私が勘違いしたのかもしれないし、家鳴りや排水の音かもしれない。とにかく何かしら出所不明の音を聞いたとき、私は心の中でつい「尚輝が戻ってきたのでは」と期待した。だから潮の匂いを嗅いだような気分になったのだ――そう思おうとした。それがもっともありそうな話だと思った。

 でも、気がつくと部屋の中で耳をすませている自分がいた。あの有名な『猿の手』の物語のように、ある夜死んだ弟が玄関の外に立つのではないかと妄想さえした。理性ではばかばかしいと思いながら、少しずつ深みに沈んでいく感覚があった。

 まりあちゃんとは相変わらず、アパートの前で時々顔を合わせた。彼女との他愛のないおしゃべりに、私は時々弟の話を混ぜ込むようになった。

 私の話す尚輝は四つ年下で、色々あって引きこもっていて、でも私との仲は悪くなくて、のんびり構えていればきっと外に出てくるはずで――とにかく、ちゃんと生きていた。

「じゃあ、いつか紹介してね」

 そう言って、まりあちゃんは笑った。ふわふわした愛らしい笑顔だった。私は「うん、ゆっくり待ってて」と答えて彼女に笑い返した。部屋に戻ってから、自分のやっていることの虚しさがしんどくなって、ひとりで少しだけ泣いた。

 十月が過ぎていった。風が涼しくなり、私は温かいお茶を飲むことが増えた。まりあちゃんは玄関の鍵を開けるのが上手くなり、私はその成長速度に舌を巻きながら、微笑ましい気持ちで彼女が帰宅する音を聞いた。

 そして変化は、まりあちゃんだけに訪れたものではなかった。


 尚輝の部屋からは、時折はっきりと物音がするようになった。部屋の中をぐるぐると歩き回るような足音。ギシッという、ベッドのスプリングが軋むような音がすることもある。音だけではなく、机の上に重ねておいたはずの本が、すべて床に散らばっていたこともあった。差し入れた食事が、ぐちゃぐちゃに混ぜられていたこともある。

 それらすべてを、私は自分の気のせいだと思い込もうとしていた。

 物音や足音はきっと錯覚だ。そんな物音、実際にはしていないのだ。ものの移動や食事の件は、無意識のうちに自分がやっているのだろう。もしも尚輝の部屋に監視カメラを仕掛けたら、きっと夢遊病患者のように部屋の中を荒らす私の姿が映るに違いない。

 尚輝が戻ってくることを夢想していたくせに、私はそれらの現象をもって「尚輝が帰ってきたんだ」と結論付けることを拒んだ。それらの現象は、あまりに人間らしさを欠いているように思えたのだ。生者と死者との間に越えがたい境があるのだと見せつけられるようで厭だった。それなら「すべて自分のせい」である方がずっとよかった。

(尚輝、戻ってくるならちゃんと戻ってきて。ちゃんとあんただってわかるように、生きてるときみたいに喋ったり笑ったりしてよ)

 そう思いながら私はドアをノックし、「尚輝」と呼びかけた。せめてノックのひとつも返せばいいのに、と思ったが、何も起こらなかった。

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