04

 亡くなったとき、尚輝は十六歳だった。友達数人と遊びに行った海で、波に流されて行方不明になった。遺体は翌日発見され、私たちの待つ家に帰ってきた。

 私たちはそれまで、ごく普通の姉弟だったと思う。確かに仲はよかった。でもベタベタする感じじゃなくて、本当になんてことない、普通の姉弟だった。ブラコンなんて冗談で言うことはあっても、本気で思ったことはなかったはずだ。

 でも、尚輝の死は痛手だった。当たり前のようにひとつ屋根の下にいた家族が欠けたことは、私自身想像もできなかったほど深刻に、私の心を壊してしまったらしかった。


 葬儀のあと、ふとからっぽの部屋をノックして「尚輝」と呼びかけたときのことを、私は今でもはっきりと覚えている。

 きっかけは本当にただの気まぐれだった。でも声をかけた瞬間の、頭の中に光が差すような感覚は鮮烈だった。弟が死んだことはちゃんとわかっているのに、それでもこの一瞬だけは以前の生活が戻ってきたような気がした。

 それから毎日、私は尚輝を呼び続けた。

 両親は一年間、私の行動を黙認した。一年のち、そろそろやめた方がいいと言った。私も父も母も泣いたけれど、私は「もうやめる」と約束することはできなかった。表向きはすっかり日常に戻っていた私は、ふたたびバランスを崩すことが怖かった。

 三年が経ち、両親は私に「やめてくれ」とはっきり告げた。辛くて見ていられないと言われ、結局私は実家を出ることになった。それから一人暮らしのくせに広い部屋を借り、二人分の食事を用意し、遺品を置いた部屋の中に向かって声をかけ続けている。尚輝は海が好きだった。サンゴ礁の写真集、防水のデジタルカメラのカタログ――両親が「見るのが辛い」と言ってしまい込んでいた海に関する品物を持ち出し、部屋に置いた。

 私はなぜこんなことを六年間も続けているのだろう。崩れてしまった私の心のバランスをとるためにだろうか? それとも、こうやっていればいつか尚輝が帰ってくるとでも思っているのだろうか。よくわからない。そして、どうしてか止めることもできないままだ。


 まりあちゃんたちと別れて自分の部屋に帰った。玄関を開けるとすぐにダイニングキッチンがあり、右手にトイレとバスルームに通じるドアがそれぞれある。居室は奥だ。右側のドアが私の部屋、反対側が尚輝の部屋。

「ただいま」

 いつもの習慣で、私はドアを閉めると共に声をかけた。そのとき、部屋の奥から物音がした。

 かたん、というような微かな音が、でも確かにこのこじんまりとした住まいのどこかで発生した、と思った。

 わけもなく、尚輝の部屋が気になった。

「尚輝?」

 私はパンプスを脱いで奥に向かった。尚輝の部屋の前に立ち、耳を澄ませる。

 何の音もしない。

「尚輝」

 声をかけてみた。やはり何も応えるものはない。

 ふふ、と口から笑いがこぼれた。私は滑稽だ。尚輝がいるわけがない。さっきまりあちゃんとお父さんに「一緒に暮らしているんですよ。楽しいよ」と語った弟は、本当はもうどこにもいないのだ。

 自分を納得させるために、ドアを開けて部屋の中を覗いてみた。ベッドや机、棚などの家具は新しく買い足したものだけど、電気スタンドや、机の上に積んだ本やカタログの類、クローゼットの中の服なんかは尚輝のものだ。カーテンも本人が好きそうな紺色と水色のストライプにした。部屋の中には若干にせよ、尚輝の気配が漂っている。

「尚輝」

 もう一度声をかけた。そのとき、異臭が鼻をついたような気がした。

 なにこれ、と独り言をこぼして辺りの匂いを嗅いだが、なにも匂うものはなさそうだった。匂い自体ももうほとんど感じられない。

 ドアを閉めながら、今のは何だったんだろうと考えた。嗅ぎ覚えのある、夏を思い出すような匂いだった。ふと、小さかった頃の家族旅行が脳裏をよぎった。

(そうか、海水浴だ。潮の匂い)

 それは尚輝自身と、彼が海で死んだことを、いやおうなしに私に思い起こさせた。

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