気のせい
01
我が家の近くにバスが停まるようになったのは、確か九月の終わりか、十月の頭あたりからだったと思う。
窓の外からぶうん、というエンジン音が聞こえると、ぼんやりと落ちかけていた思考が現実に戻ってくる。私はそこで(ああ、バスが来たな)と頭の中で呟く。
週の半分はリモートワークで、出社せず家で仕事をしている。通勤の手間がないのはありがたいけれど、自宅と会社ではどうにも緊張感が違うというか、どうしても気が抜けやすくなる。ぼんやりのピークは大抵三時半頃に訪れ、バスはここを狙うかのようにやってくる。
バスが来たタイミングで私は立ち上がり、居室を出てキッチンへと向かうことにしている。半分はコーヒーをいれるため、そしてもう半分は階下の様子を伺うためだ。
二階建てのアパートの間取りは2DK、正直この間取りにしてはちょっと家賃が高いと思う。でも小さなアパートにしてはしっかりした造りで、築年数もまだ浅い。アクセスもいいし、私と弟の
お湯を沸かし直しながらキッチンの小窓から外を見ると、大抵はバスがアパートの前の通りを走っていくところだ。路線バスではない。盲学校のスクールバスである。
今、この真下の部屋には目の不自由な女の子が住んでいる。最近父親とふたりで引っ越してきた、小柄でかわいい子だ。まだ短い付き合いだけれど、会えばちょっとおしゃべりするくらいには仲良しになった。彼女も私のことを「近所の優しいお姉さん」くらいに認識している――といいな、と思う。
階下のドアが開き、また閉じる音と振動を感じた。階下の彼女が無事一旦帰宅したことを悟り、私はほっと胸をなで下ろす。
マグカップを持って仕事に戻る間際、私は隣の部屋のドアをノックし、名前を呼んでみる。
「尚輝」
返事はない。わかってはいるけれど、それでも声をかけてしまう。
私の生活はもう何年も変わらない。仕事をし、家事をし、尚輝の部屋をノックする。声をかけ、食事を差し入れる。冷めきった食事を回収する。実家でもずっとこうだった。
尚輝のことで両親と揉めて実家を出、職場の近くに移り住んだ。そこでもまたこうやって暮らしている。この部屋に客が来ることは滅多にない。尚輝ではなく、私が他人を入れたくないのだ。そうやってずっとこの生活を維持していた。
変わってしまったのは、階下にやってきた女の子――まりあちゃんがきっかけだった。たぶん、そうだったのだと思う。と言っても彼女が何かしたわけではない。私が勝手に「そうしてしまった」だけなのだった。
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