此方側の話
「あんた、山を登んのかい」
売店のお爺さんは若い男に向かってそう尋ねた。
喉の乾きが収まらず、行きの電車で思ったよりも水を消費してしまったのでその分を補充するために寄った山の麓の売店だった。
「ええそうなんですよ。ツアーでね」
「一人じゃないんか?」
「はい、9人ほど。20代限定のツアーで出会いも兼ねて。最近彼女と別れてしまったので友人が気を利かせて誘ってくれたんですけど……まぁ多分、そうは言ってますけど自分が出会いたかったんじゃないですか?」
「は〜〜、そりゃまた。この山にわざわざせんでも……。登ってもなーんも無いぞ? 寧ろ……」
「むしろ……?」
「ああ、いや……ま、その、川には近付かん事じゃ。獣が出るからの」
「えぇ! 野生動物ですか? 熊とか出ないですよね……?」
「熊はこの地域には居らんわい!」
「そうですか……良かった。頂上付近に最近グランピングが出来たんですよ。知ってます?」
「テレビで聞くがわしゃよぉ分からん」
「あはは。キャンプ場みたいなとこですよ。本当は車でも行けるんですけど、こういうツアーがあるんなら折角だからって。星が凄く綺麗に見えるらしくて、楽しみにしてます」
「そうか……。まぁ……もし山で迷ったら猫じゃらしを辿るとええ」
「猫じゃらし、ですか?」
──「リョータくんまだぁー?? ガイドさん来ちゃったよー!」
「あっ、ごめ。お爺さんありがとうございます。行ってきますね」
ツアー客のひとりに呼ばれ、リョータと呼ばれた男は急いでお釣りをしまう。
走り出す若い男の背中に、「ああ、行ってらしゃい」と、手を振るお爺さんの微笑みが、何だか妙に気になった。
「はーーい、こちらで一旦休憩を取りまーす! 1時間後に出発するのでこの小屋が見える範囲で自由にしてもらって構いません! が! 川には入らないように! 川遊びに来たんじゃなくて山登りに来たんですからねー! 流れが緩くても脚持ってかれちゃいますからねー! ガイド付いてるのに水難事故なんて洒落になんないですよー!」
ガイドの女性が案内すると、ツアー客は元気に返事をしてリュックを肩から下ろした。
昼頃には目的地へと着く予定だが、小腹が空いた。おやつでも食べようかと、山小屋に入れば9人も居ても十分な広さだった。
素朴な机と5人分のベンチ。女性4人を座らせて、男性は床へ腰を下ろした。
「よし。じゃあ私はこの先の道を確認してきますので休んでて下さーい」
「えーー! おねーさん行っちゃうのぉー!? 俺たちと休憩しようよー!」
「全く。私はガイドなので皆さんの安全を確保しないといけないのっ!」
「ちぇーっ」
「50分ほどで帰ってきますのでキチンと待っているのよ?」
「俺おねーさんの帰り楽しみに待ってまーっす!」
「はいはい。じゃあ行ってきますねー」
「全く男ってのは……」
「そんなに胸の大きさが大事ですかー??」
ギリギリ20代を名乗れる年齢のガイドの女性。ツアー客の9人からみればオバサンに近いが、確かに胸はたわわと実っている。それに(女性陣達は認めたくはないが)顔も含めて結構可愛い。
「カズヤはいつもあんなだよ。調子がいいからね〜」
「というか本人気付いてないけど年上が好みなんだと思う。アイツん家お母さん居ないから」
「ふっーーん」
「甘えたいひとなんだぁ〜」
「ね、ね。それよりマリアちゃんの好みはどんな人!?」
「えー? あたしぃ〜〜? あたしはぁ〜〜──」
酒もないのに都会でよく見掛ける合コンと変わらず、楽しそうにはしゃぐ男女。小腹を満たせば駄目だと言われた川がふと気になった。
誰が言い出したか、なんて覚えていない。「川でも見に行こうよ」と、なんとなくの好奇心に皆の身体が動いていた。
「そーいえば売店のお爺さんが獣が出るから気を付けろって言ってたな」
「あたし雄鹿なら見てみいたいなぁ!」
「えーー。やだーメグこわーい」
「まぁ獣にとっちゃ良い水飲み場だよな」
「つか野生動物が出るのってだいたい夜中のほうが多いだろ。それにこんなに人数居たら出てこないって」
「確かに」
「え! やば! あそこちょー映えじゃない!?」
「っっびっくりした、何よ突然……って。マジだ。やっば。ちょー映えじゃん」
イマドキ女子が指差した場所は、川の中洲、白く美しい花が咲き誇り、正に『映え』そうな場所だった。
百合のようで、でも少し違うような。とにかく花の名すら分からないが、穏やかな水面から顔を覗かせる姿はまるで己が異世界に迷い込んだかのように思わせてくれる。
「写真撮ろーぜ!」
誰かが言った。
柔らかな川のせせらぎと透き通る水。足首ほどの水深。
誰も止めるものは居なかった。
靴下と靴を脱ぎ、裾を捲り、川へ足を踏み入れる。
売店へ訪れたリョータの頭にお爺さんの微笑みが過ぎったが、この雰囲気を壊すほどの抑止力は無い。そんなことよりも己も早くあそこへ混ざりたい。
「きゃー! つめたぁ〜〜い!」
「メグちゃん御手をどうぞ」
「ありがとぉ。シオンくん優しいぃ〜〜」
今日出会ったばかりなのに随分と仲がいい。年甲斐もなくはしゃいで、間違いなく「良い思い出だった」と胸を張って語れるだろう。
あそこへ混ざる前にこの光景をカメラに収めるかと、リョータはポケットに仕舞っているスマホに手を伸ばした。
「あれ。無い」
あるべき場所にあるべきスマホがない。
とすると小屋に置きっぱなしにしたリュックの中か。
リョータはあの青春が終わる前にと、急いで取りに行った。
「リョータくんは?」
「さあ? なんか小屋に戻ってったけど。忘れ物でもしたんじゃね?」
「ふーん。リョータくんってなんだか落ち着いてるよねー。わたし結構タイプかもぉ〜」
「え! アキちゃんまじ!? リョータに言ったらきっと喜ぶよ!」
「えーー?? そぉかなぁーー??」
「ああ見えて素直に喜んじゃうタイプだから! あいつマジ良い奴だから!」
「んだよお前、なにアキちゃんと楽しそうに喋ってんだよー! 抜け駆けする男にはこうだ!」
「うおっ! 冷てえっ!」
「あはは! リョータくんの話してただけだよー! ねー?」
「リョータ? ん〜〜……それでもこうだっ!」
「きゃっ!」
「やったなぁ!」
水を掛け合う3人の後ろでは、写真撮影が行われていた。
映えとセルフィーに勤しむ女子3人と、それをスマホに収める男ひとり、その全体をビデオモードで撮影する男ひとり。
目の前の美しい景色を殆どの人が画面越しに見ているのだからなんとも不思議な光景である。
「お。何だあれ。魚? でっけぇ〜」
ビデオ撮影していた男が言った。
画面に映るは
ズームアップしてみたが、手ブレは酷いし、ゆらりゆらりと近付く影に追い付かない。
「なぁマサヒロ。なんかすげーでけー魚いるから捕まえてよ」
「は? どこよ」
「あそこ」
「うわ、マジじゃん。任せろし。ヒグマにでもなった気で捕まえてやっからよ」
「頼むわ。撮れ高は気にしてな」
「マジか」
「おう。つーかこっち向かって来てね??」
「マジだ。……え、つかマジでかくね? 捕まえていいやつなの??」
「マジでけ〜。本当に魚? てかマサヒロ、ふつーに捕まえられそ、う…………ッ──!!」
──キャアアアァアア……!!」
リョータの耳に叫び声が届いたのは、丁度スマホを手に取ったときだった。
見つけた場所はリュックの中でも、もう一度確認したポケットの中でもなく、座ってもいない室内のベンチだった。
急いで川へ向かったリョータだったが、其処に皆の姿はない。
川に流されたのか?
それとも自分を驚かすためか。
しかし話し声も、居た痕跡すらもない。
正に、忽然と姿を消した。
「ちょっ……みんな……?」
ぽつり呟くと、後ろから「リョータ君?」と声をかけられた。ガイドのお姉さんである。
ぬうっと顔を出されるものだからそりゃあもう驚いた。状況が状況だ。
「あはは! ごめんなさい、驚かせちゃった? 川は危ないわよ。それで皆は? 何処に行ったの?」
「あ……えと、それが……川で遊んでて……僕はスマホ取りに行ってて小屋に居たんですけど、皆の叫び声が……」
「叫び声? 他の子たちは、川に入ってたの?」
「ッ、はい……」
「そう……。はぁ……こりゃ渡ったわね」
「す! すみません……! 保護区域だったんですかね!? ちゃんと話も聞かずに……!」
「いいのよ、謝らないで。それより、早く迎えに行かないと手遅れになっちゃうわ。リョータ君、悪いけど、私と一緒に行きましょ!」
にこりと微笑み手を取り、たわたな胸を揺らすお姉さん。
淡く煌めく己の胸の高鳴り。山を登ってグランピングを楽しむんだって今このときも思っていた。あわよくばガイドのお姉さんと良い感じになったり、と。そんな期待をしたりして。
だが、目の前にするまでは思いもしなかったのだ。
あんな恐ろしい獣から逃げなければならないだなんて。
「ッやばい! なんなの!? なんなの!?」
「ねぇマサヒロくんはどうなったの!?」
「っわっかんねーよ!!」
「はっ、はぁ……とりま、落ち着こう! 整理しよう! な!?」
「さっきの、アレ、なに……!?」
「分かんないけど、なんか、人形みたいだった……」
「でもっ! 牙が! 目も……! やだぁああ!! ねぇマサヒロくんは!!? あたしッ! 目の前でッ……!!」
「お、落ち着けって……! きっと大丈夫だって、救急車呼べば助かるって……!」
「ねぇ! ここ圏外なんだけど……!!」
「もう帰りたい……」
「え、ちょっと待って。てかさ、私達が休憩してたこの小屋ってさ……川のこっち側だったっけ……?」
「え──、」
川の向こうの12たち ぱっつんぱつお @patsu0
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