第8話
夏は、長いようでかなり短い。もう夏休みも残すところ一週間となった。ある者は部活に、ある者は宿題に、ある者は文化祭準備に追われていた。
あれから準備で春に会っているが、私の反応のせいか、どことなくぎこちない空気が流れている。秋田大成とも何回か会った。こちらも同様に、ちょっぴり気まずい感じになっている。
そんな私たちの微妙な空気とは裏腹に、準備の方は着々と進んでいて、仕上げ作業ももう終わるというところまで来ていた。
「やっと終わりそうだね。」
先に口を開いたのは春。感慨深そうにして手元の服を眺めている。
「そうだね。もう少しで夏も終わっちゃう。」
「ねえ陽ちゃん。私に何か言いたいこと、ない?」
突如、雷を落とされたみたいにぴしり、と私の体が硬直した。はっと春の顔を見ると、いつになく真剣なまなざしでこちらを見ていた。私はすぐにいたたまれなくなって視線をそらした。
「ないよ。急にどうしたの。」
「噓でしょ。最近、私と話すとき気まずそうな顔してる。」
「そんなこと」
「そんなこと、あるんだよ。」
春は、強かった。これじゃ出会ったころとまったく正反対だ。本当に、私に似てきている。
「陽ちゃん、秋田君のこと好きでしょ。」
ひゅっと喉の奥で音が鳴った。突如崖から突き落とされたような感覚に陥る。
「なんで……」
「見てればわかるよ、それくらい。だって、私だって好きだもん。秋田君のこと。」
知っていたけれど、実際に声に出されるとさらに現実味が増して、大きな衝撃となって私に重くのしかかる。気づけば言葉が飛び出していた。
「本当に変わったよね、春。友達になろうって言われた時のあのオドオドした感じとかどこか一歩引いてる感じとかもうどこにもない。……私…春みたいに変わりたいよ。」
一度出てしまったものはもう戻せないし止められない。語尾がどんどん弱くなっていく。自分がみじめで、愚かで、今すぐにでも消えてしまいたかった。
横目で春をちらりと見るが、俯いていてどんな表情をしているのかわからなかった。いつの間にか教室には私たち二人だけになっていて、静寂で満ちていた。
どれくらい経ったか。ついに、春が「なんでよ」と泣きそうな声で言った。
「なんで、そんなこと言うの。陽ちゃんが決めたんだよ。だから私だってーーー」
「え、ちょっと待ってよ」
私が決めたってどういうこと?そう聞く前に教室の扉が開いた。そして人全然いねぇじゃんと言いながら入ってきたのは秋田大成だった。
「あ、二人はいたんだ。他の、みんな・・・は?」
私たちの姿を見つけた彼は言葉を紡ぎながら私たち二人を代わる代わるに見て言葉のスピードを緩めていった。私たち二人の間に何かがあったのは歴然としている。私たちが一向に黙っていると、向こうから尋ねてきた。
「何があった?ってかお前ら・・・・・・」
彼は再び代わる代わるわたしたちをじっと見て、表情を険しくした。これから良くないことを言うぞと示しているように。やや、間があって彼はその口を重々しく開いた。
「影野、いや福寿?・・・・・・ハル、お前は・・・誰だ?」
はっはっと息が切れる。ドクンドクンと心臓が大きく波打っている。
私は今家にいる。パジャマを着てベッドの上にいる。さっきまで学校にいたのに。あれは、夢だった?じゃあ、どこから?
頭の中がごちゃごちゃでも夢から覚める前の秋田大成の言葉だけが鮮明で、脳内で繰り返される。
『ハル、お前は・・・誰だ?』
「私は、誰?」
ポツリと溢れたその言葉は闇に溶けていく。急に体温が下がったかのような感覚がする。
陽か、春か?
私は誰だ?誰だった?
半ばパニック状態でそばにあったスマホを手にとった。そして開いたのは彼の連絡先だった。迷わずに発信ボタンを押す。
深夜だと言うのに、秋田大成はすぐに出た。繋がったとわかった瞬間に私は捲し立てるように話し出していた。
「さっき夢で秋田大成が言ってたでしょ?お前は誰だって!私は誰なの?誰だと思う?ねぇ教えてよ!?」
「ちょっと落ち着けって!」
あまりの私の動揺ぶりに向こうも焦った声を隠そうとしなかった。でもそれがかえって良かったのかもしれない。徐々に抑えきれなかった気持ちがしゅんしゅんと萎んでいった。
「ごめん、わけわかんないよね。」
あれはあくまでも私が見ていた夢であって秋田大成は関係ないのだ。それなのに夜中にこんなふうに電話をかけていきなりヒステリックに捲し立てて、とんだ迷惑モノだ。
「いや、多分わかる。俺もおそらく・・・・・・お前と同じ、夢を見ていた。最後に、お前たちと話したことは覚えている。そうだ、二人いたはずなんだ。でも、お前ともう一人が誰か、わからない。」
秋田大成は消えかけている記憶を脳内に繋ぎ止めるようにして話している。それは私も同じだった。段々と、何があったのか、もう一人のハルが誰だったか、わからなくなってきている。
「これから、どうしたらいいんだろ」
「どうしたらってそりゃ、もう一回寝るしかないだろ。向こうに行けば何かわかるよ。」
「でも!寝れなかったら?」
「大丈夫だよ。考える前にとにかくやってみよう。どうにかなるって。」
スマホの向こう側で彼がニッと笑っている姿が浮かんできて、私もそれに釣られて微笑んだ。
「そうだよね。わかった、寝てみる。一回切るね。」
ああ、という返事を聞いて電話を切ってベッドに潜り込んだ。目を瞑ると思っていた以上に睡魔が襲ってくる。それに抗うことなく私は身を委ねた。
———あのコミュ障のせいで、マジ萎えるわあ。
薄れゆく意識の奥で、悪意に満ちた言葉が響く。そういえばこれ、あの時に———
・・・・・・ああ、そうか。
ようやく真実を手にした私は完全に闇の中へ落ちていった。
再び目を開け、、ば、またあの教室に戻ってきていた。斜め前には秋田大成とハルが同じようにして立っている。
「お帰り、ハルちゃん。」
目の前のハルは薄く微笑んでそう言った。私はそれに応えることなく、本題に入った。
「私、ようやくわかった。ハルの本当の正体。」
ハルは何も言わない。私はそのまま続ける。
「私ね、初めてハルに話しかけられた時にすごくイライラしたの。他の人だったらそんなふうにならないのに。あと、その時に『あのコミュ障のせいでマジ萎える』って言葉が頭の中に浮かんだのを思い出した。なんで忘れちゃってたんだろう。」
ハルはまだ口を閉ざしたまま、こちらをじっと見つめている。その表情からは何も読み取れなかった。秋田大成も険しい顔つきでこちらの話に真剣に耳を傾けていた。
「……中学生の時だよね。私たちがそうやって言われたのは。あの頃はずっとボッチでクラスの子たちからあんなふうに言われて。それで、高校生になったら絶対に変わってやるって思った。そうだよね。
変わる前の私、影野春。」
ハッと息をのむ音。秋田大成だった。目の前の、もう一人の私は全く微動だにしない。こうなることが分かっていたみたいだ。
「イライラしたのは変わる前の自分に対する拒絶。あの頃の自分のこと、私自身が相当嫌ってたから。」
「正解だよ、春ちゃん。」
ここでようやくもう一人の私———春が口を開いた。相変わらず口元に薄笑いを浮かべているけれど、私に向けられた瞳は悲しみを含んで揺れていた。
「高校生になるのをきっかけに、過去の自分を心の奥に封じ込めた。そうしたら私はクラスにもなじんで自身も持てるようになった。でも」
「落ち着かなかった。」
「どこかでこれでいいのかなって後悔して、本当の自分を出せないことがむずがゆくて仕方がなかった。その思いがいつか私をまたあの頃に戻すんじゃないかって。その考えがこの世界と私を生み出した。過去の影野春を完全に変えてしまえばそんなことは起こらないから。」
「じゃあ、俺は?どうしてここに呼ばれたんだ?」
当然の疑問。それは私にも答えがわからなかった。春は一瞬不思議そうな顔をして、ああそうだと合点がいったように話しだした。
「秋田君はきっと私たち二人共を受け入れてくれるって判断したから。実際、そうだったでしょ春ちゃん?っていうか、私が春ちゃんに伝えたかったのはそういうこと。」
「え……」
どういうことだろう。確かにもう一人の私の正体は見破った。でもそれ以外は全く分かっていなかったのだ。秋田大成もよくわかっていなさそうだ。
「私もあなたも、どっちも影野春っていう存在をつくっている大事な部分で、どっちかを捨てる必要なんてないんだよ。現に秋田君はどちらも受け入れてくれた。私たちが初めて話して喧嘩したとき『お前はお前だから気にするな』って私にも言ってくれた。みんながみんな、過去の私を嫌ってるわけじゃない。無理に消そうとしなくたっていいんだよ。」
「大丈夫、かな。」
毎日怯えていた。いつか昔の自分がばれて嫌われること、距離感を間違えて傷つくこと。そのことを考えるたびに昔の自分を恨んで、存在そのものを拒絶してきた。でも、こうしてどの面の“私”も私の一部として受け入れてくれる人がいる。
「大丈夫」
私の今にも消え入りそうな問いに答えてくれたのは秋田大成だった。上を見上げれば、こちらにまっすぐな彼の視線が落ちていた。きゅっと胸がしぼんで視界がゆがむ。零れ落ちていく涙を止めようとすることなく春に向き直った。
「ごめんね、嫌いになって、消そうとして。散々傷つけた。でも、もう、忘れたりなんてしないから。元の自分に戻ることはできないと思うけど、もう二度と、嫌いになったり、しない。」
言葉を紡いでいる間に頭の中が真っ白になって、体からすうっと力が抜けていく。もうそろそろお別れだね、という声が遠くで聞こえる。私は重くなっていく口を何とか動かして、言葉を絞り出した。
「あなたに、あえて、よかった。ありがとう、だいすき」
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