第一章 私の日常②

 そんな風に目標に向かってじゆうじつした時間を過ごしていたある日、私は予想外の提案を受けて城の一室で頭をかかえる事になった。

「つまり、私とラティル王子のこんやくは解消、という事でしょうか?」

「そうしていただけないか、という提案だ。本当に申し訳ない。すべては私の責任だ」

「ごめんなさい。いえ、申し訳ありません」

 目の前で私に向かって深く頭を下げるラティル王子とアンジュは、だんの気安さを消した固い言葉を、けれど強い意志をめて口にしている。長年の付き合いだからこそわかる二人のしんけんさに、よけいに頭を抱えたくなった。

 同じ部屋にいる両親も、そして王族の方々もじっと私達を見守っている。あくまで私に最後の決定権をゆだねようという事なのだろう。

 かれ合ってしまったのだという二人からのたのみ、私とラティルの婚約と、その後に二人が婚約する事を受け入れるかいなか、を。

 頭が痛い、だが違和感が無かったと言えばうそになる。ラティルと会うのは彼の計らいで城の中にある庭園が主だったが、最近は私の家ばかりだった。

 アンジュの話をする時のラティルの優しいけれどまどいの混じった瞳と、家で私とラティルの結婚の話題になった時に、視線をらすようになったアンジュ。

 惹かれ合っていった二人は表に出さないようにはしていたらしいが、好きだという気持ちをおさえきれなくなったのだろう。ラティルが私と会う場所を家にすればアンジュといられる。しかしそこで聞く話はどうしてもラティルと私の結婚を意識させるものだ。

「これが姉様への裏切りだとわかっていたわ。だからだと、あきらめようと、そう決めていたのに……会えば会うほど、どうにもならなくなってしまったの」

「我が国のために、と君が必死に努力しているのを知っている身で、このようなわがままを言う事は許されないとわかっている。だが、諦めなければと思うたびに気持ちは強くなって、心の中で君を裏切り続ける事にもえられなくなってしまった」

 二人の背を押したのは、城に勤めている貴族の方だったらしい。心に秘めていたおもいに気付かれて、家同士がつながればいい婚約なのだからアンジュが婚約者でも問題ないじゃないか、と言われたそうだ。そんな鹿な事があるか、と最初はきよぜつしたものの、それに気が付いた事で感情が止まらなくなって、ついに二人になった時に想いを口に出してしまったそうで。貴族の方の名前を聞いてみれば、その提案にもなつとくだ。身分ちがいのだいれんあいの末に現在の奥様と結ばれ、その事で地位を取り上げられたものの、自身のゆうしゆうさを武器に再度上流貴族にまで成り上がってきた事で有名な方だった。

 確かに王家にとっては家の繋がりが最優先なので、婚約者はアンジュでも問題無い。

 芽生えたこいごころがどうしようもない事も、二人の事をよく知るがゆえにわかっている。ここで反対したとしても、二人が愛し合う気持ちが無くなるわけではない。ラティルがアンジュを心から愛している事を知った状態で、彼に友愛しか向けていない私が結婚してもお互いに不幸にしかならないだろう。問題があるとすれば……、

「国民には私達の婚約を発表しております。彼らが納得出来る婚約破棄の理由をつけなければなりませんし、それが難しいという事も理解しておられるのですね」

「ああ、わかっている」

 ふう、と大きく息をきだす。このじようきようで出せる答えなんて一つしかない。

「約束して下さい。国民達がいだく不信感を最低限にして、彼らの幸福を優先する事を」

「ああ、必ず」

「アンジュ、私が何年もかけて身につけてきた王妃としての知識や魔法を、これからあなたは短い時間で努力して身につけなければならないわ。今までのように厳しいからいや、は通じない。わかっているわね?」

「はい」

 迷いのない目が二人分、うまくまとまれば幸せになる人が増える婚約破棄だ。

 ……私一人さわぐ理由も、意味もない。

 この世界は恋愛ゲームが元になったからか、多少恋心が優先される事もあるのだし。

「お二人がしっかりと国民のために努力して下さるのであれば、私に否という理由はありません。元々が国の為の結婚です。その前提がくずれないのであれば、惹かれ合う二人が結ばれるのが一番でしょう」

 私の言葉を聞いた二人は泣くのをこらえるようにくちびるを引き結んで、再度深々と頭を下げた。母はほっと息を吐きだし、父は視線をゆかに向けて無言のままだ。

 成り行きを見守っていた王が静かに立ち上がる。

「シレーナ殿どの深き決断に感謝申し上げる。息子むすこが本当に申し訳ない。ラティル、そしてアンジュ殿も、本来なら許されぬ事を通したのだ。責任を持って国民が婚約破棄を不安に思わず、新たな婚約を祝福出来るように努力しなさい」

 はい、と力強い声が二つそろう。少なくとも二人がこの約束をたがえる事は無いだろう、後はこの婚約破棄と婚約者へんこうが国に不利益をもたらさなければそれでいい。

「シレーナ殿、長い間国のために努力を続けてくれた事、心より感謝申し上げる。王妃の仕事はアンジュ殿にやってもらう事になるが、これまで王族の婚約者として働いてくれていた分、シレーナ殿の今後は王家が保障しよう。何かやりたい事があるのならばゆうずうかせる。なんにせよ、少しの間はゆっくり過ごしてくれ」

「ありがとうございます。婚約破棄の説明に何か協力出来る事があれば……」

「それを考えるのは破棄を言いだした二人の仕事だ。何をどうするのかまでシレーナ殿にたよる事は私が許さない。それが一方的な婚約破棄を受け入れてくれたシレーナ殿への責任というものだ。二人がしっかり考えて私に報告に来なさい」

「はい」

 王の言葉で婚約破棄は確定し、ラティル……殿でんとアンジュからそれこそ地面に頭を打ち付けるのではないかと思うほどの謝罪の言葉を何度も受け、とうの一日は終わった。


 無事家に帰って来たものの、気まずい空気はもうどうにもならないだろう。

 私が、というよりもアンジュの方だ。

「アンジュ」

「……っ、はい!」

 上ずった声で私の呼びかけに反応したアンジュと、それをおろおろと見守る両親。空気が重い。今日はもう言いたい事だけ言って部屋に引っ込もうと決めて、口を開く。

「あなたと王子が私に気をつかっていつまでも不安そうにしていたら、婚約破棄の意味がないわ。私と王子の間に恋愛感情は無かったのだから、あなたが気にするのは別の事よ」

 じっと私の顔を見るアンジュのひとみを見つめ返す。

「私に悪いと思うのならば、その分だけ国民を幸せにして。それがこうしやく家に生まれ、国を治める王家にとつぐ者の責任です。私が必死に勉強していたのは、国民の幸せのため。私が婚約破棄を受け入れなければ良かった、なんてこうかいしなくて済むようにしてほしいの」

「……はい」

「アンジュ」

「うん、うん! 姉様ごめんなさい。ありがとう」

 再度名前を呼んだ私にしぼり出すようにお礼を言ったアンジュと、謝罪とお礼の言葉を口にする両親と別れて自室へともどる。あの場にいたという事は、王族の方々も両親も婚約破棄の件を知っていたのだろう。みんな私の「はい」という答え待ちだったという事だ。

 ランプの明かりが照らすうすぐらろうを進み、いつものように自室のとびらを開けて中へと入る。部屋の中もいつも通りで、今日お城に行く前と何一つ変わっていない。机の前まで歩み寄って書類に手をばすが、その手は空中でぴたりと止まった。

「もう、私の仕事じゃなくなるのね」

 この時間は明日の予定をかくにんして、とつぱつ的に増えた予定外の仕事を済ませる時間だった。しかし王太子としての書類仕事はもう、私の仕事ではなくなったのだ。

 書類に伸ばした手を引っ込めて、机のとなりにあるほんだなの前へ向かう。私の身長よりも高い位置にある一番上の段のはしから背表紙をなぞるように、ゆっくりと順番に本にれていく。サロンでのマナー、外交時のい、外国語の辞書、ダンスの教本にたくさんのほうの教本。王妃になるためについやしてきた勉強の間、この本達を何度開いただろう。本棚には私が勉強中に様々な事をまとめた羊皮紙も置いてある。

 それを手に取る気にならず、薄暗い室内に火をともす事も無いままベッドへたおれこむ。明日の朝もきっといつものように大きな音で飛び起きるのだろう。

 けれど私の立場は大きく変わる事になる。

 次期王妃では無くなったけれど、先生はまだ勉強を見てくれるだろうか。今は海の底にいる彼の顔を思い出す。魔法でゆっくりもぐるので、先生とは数か月会っていない。

「……少し、休んでから考えよう」

 居間では両親やアンジュがこれからについて話し合っているだろう。今私が行くとみんなが気を遣ってしまって話し合いがややこしくなる。

 私も頭の中を整理したいし、と少しだけのつもりで目を閉じた。

 真っ暗なやみの中は、夜に潜った海の中を思い起こさせる。

 やりたい事があれば融通を利かせると言っていただいたが、私が心底やりたいと思うのは海で泳ぐ事だけで、いくら王家と言えど私に潜る力がない以上はかなえられない。それに新しい仕事を短い時間でめ込まなければならないのはアンジュだけでなく私もだ。今までは王太子妃の仕事が主体だったので公爵家の仕事は多少引き受けていただけだったが、これから公爵家としての仕事のすべてを急いで覚え直さなければならない。

 それに、今は王がづかって下さっているが、その内私にも新しい見合い話がくるだろう。どんな人だろうか、まだ見ぬ結婚相手への不安も出てきてしまった。でも、それでも……。

「ゲームよりは、ずっと良い……のよね」

 ゲームでの私は最終的に負けた敵役として国の外に出されている。血のつながった父にも見捨てられ、どくになったままやつかいばらいのように遠いしんせきもとへと送られていた。

 けれど今回、ゲームと同じようにこんやくをされても王は私を気遣ってくれたし、家族とも気まずいだけで険悪になったわけではない。これも家族からあきれられないように色々な努力をして、家族が困っていた時はそつせんして手を貸してきた結果だろう。

 ……だからこれは、ゲームのように私にとってのバッドエンドではないはずだ。

 色々となやんでいる場合ではない。それはわかっているのに、頭の中では色々な感情が混ざり合っていた。たくさんの考えがかんでは消えていく。思考がうまくまとまらない。

「……泳ぎたい」

 薄暗い部屋にひびいた私の声は細く、自分でもおどろくほどに頼りなかった。

 窓の外を見下ろしたとしても、はるか下にある海は夜には欠片かけらも見えない。

 あの海の中を泳げたら、きっと頭の中もすっきりするはずなのに……。



 どれだけ悩んでいても日々はいやおうなしに過ぎていく。急な婚約破棄を受け入れてから数週間がち、私の周辺は少しだけ落ち着いてきている。

 結局あの日はそのままちしてしまい、朝に母が転んだ音で目覚める事になった。母を気遣うために自然と家族がいる部屋に入れたので、母のドジっぷりに感謝だ。

 ぎこちなさは残るもののアンジュとも会話出来ているし、ラティル殿でんがアンジュに会うために家に訪問してきても自然に話せている、と思う。二人はあいしようが良いようで、アンジュがこうしんを発揮し過ぎた時はラティル殿下が止めているし、殿下が色々考えこんで動けなくなった時はアンジュが背中を押しているようだ。

『シレーナとちがってアンジュは人に頼り切りだから、王子に支えてもらえるのはうれしい』

 数日前に両親がしみじみと言っていたその言葉からは、深いあんが感じられた。

 新しい関係はうまく回りだしている。全員が顔色をうかがいあっているのは時間が解決するだろう。王子が家に来た時はなるべく部屋にいるようにはしているので、二人が私への気遣いで気まずくなる事は無いはずだ。

 今日も二人はアンジュの部屋で勉強しているし、私も自室で仕事のひきぎのための書類をもくもくと進めている。アンジュとは部屋が近いので開いた窓から二人の声が聞こえてくる事もあるが、一度集中してしまえばそれも気にならない……その集中も、バリンッ、という音とわずかな水がこぼれる音、そして聞きなれた悲鳴が聞こえてくるまでだったけれど。昨日置いたばかりのびんの現状が頭の中に思い浮かんでしようする。

「あああ、また……シレーナ! ちょっと手伝ってくれない?」

「ええ、今行くわ!」

 続いて聞こえてきた母の声に答えて立ち上がり、後二行ほどで終わるはずだった書類に少し後ろがみを引かれながら扉へと向かう。数歩歩いた所でいつしゆん世界がれた気がしたのと同時につま先が何かに引っかかり、背筋にひやりと冷たいものが走った。

「……っ!」

 転びそうになった体をあわてて支えて足元を見るが、足を引っかけるような物は何もない。

「……家族は似てくるっていうけど、まさかね」

 最近どうも転びかけたり、手足をぶつけたりする事が多い。さすがに私まで変なドジを連発するようになったらしゆうしゆうがつかなくなってしまう。気を付けなければ。

 再度聞こえてきた私の名を呼ぶ声に答え、部屋を出る。

 色々と気まずい部分はあれど、家族が起こしたそうどうの後始末にけ回るのは変わらないし、今までやっていた仕事や知識をアンジュに引き継いだり手助けしたり……公爵家の仕事も覚えなければならないので、以前よりもずっといそがしくなった。

 そして日々が忙しいという事は、時間があっという間に過ぎていくという事だ。

 婚約に関する発表をしなければならない日が近づいてきており、婚約者のへんこう理由を作り出すのにみんな頭をかかえている。日が経つにつれて家族が重圧を感じていくのがわかるので、この件にかかわれない私は少しもどかしい。

 たまに家族が遠回しに良い案がないかと振ってくるので、自分の考えを話したりもしているけれど。これが別の良家のおじようさんが相手ならばいえがらの都合という形に持っていけるが、同じ屋根の下に住む姉妹しまいではどうしようもない。

 そんな風に家族の顔にもあせりが見え始めていたある日。

 早朝、慌てた様子の母が私の部屋の扉をノックした。けたたましくたたかれた音で飛び起き、とつぜんの目覚めでずきずきと痛む頭を抱えながら母をむかえ入れる。母が顔から転んだのを助け起こしたところで、ようやく本題に入る事が出来た。

「昨日、よるおそくまで父さんとアンジュと私で話し合ったのよ。もう本格的に動き出さないと間に合わない、何か下準備がいるならもう動かないと何も出来なくなる、って」

 だからね、と母が言葉を続ける。

「シレーナ、りようようという名目でしばらくべつそうの方に行ってくれないかしら?」

 ……そうか、としか思わなかった。

 婚約者を堂々と変更出来るとすれば、元々の婚約者に何かあったか、新しい婚約者が国益に繋がる何かを持っているかのどちらかだろう。後者が無理な以上、私の方を理由にするしかない。私が罪でもおかした、なんて理由があればすんなりと変更出来るだろうが、彼らはえんざいで私を悪人にするような人達では無いし、王様も許さないだろう。

 けれど私が長期療養が必要なほどの重い病気になった、という事ならばその度合いによっては正当な理由になる。病気の婚約者を捨てるのか、などの多少の反感は買うだろうが、長期療養が必要で私本人がそうして欲しいと言ったとすれば、多少は押し切れる。ちょうどここ数日は家の中でバタバタしていたので外出していないし、最近出歩いていなかったのは病に倒れたからだという言い訳も通るはずだ。

「あなたたち三人が今も気をつかい合って気まずい思いをしている事もわかっているわ。だから少しきよを置く事も必要だと思うの。あなたの病気は療養すれば完治する、という事にして、未来のあなたの生活にはなるべく響かないようにするから」

 しんけんにこちらを見つめる母の顔をしっかりと見つめ返す。この人は確かにミスは連発するが、悪意がある人ではない。

 私が幼いころゆうかいされかけた時、まだ父と再婚前だったにもかかわらず、自分はを負って血を流しながらも必死に私を助けてくれた時のこの人の顔を覚えている。再婚後も自分の子どもであるアンジュと私のあつかいは変わらず、おこる時には怒り、める時には褒めて、と本当に分けへだてなく育ててもらった。今度は私が母を助ける番という事だ。

「……わかったわ、母様」

 私が療養生活に入った事の公表、そこから不自然にならない程度の期間を空けて婚約破棄の知らせ、国民の反応によってはまた少し時間を空けて婚約者変更の知らせ……元々私とは一年経たずに結婚する予定だった事を考えれば、本当にもうぎりぎりだ。

「ありがとうシレーナ、ごめんなさい。じゃあ行きましょう」

「え、今すぐに?」

「ええ! アンジュ達が今お城に報告に行っているから、まずは移動してしまいましょう。荷物は私が後から持って行くわ。欲しい物があったらえんりよなく言ってちょうだい」

 準備くらいはさせてくれてもいいのではと口に出すひまもなく、母にかされて部屋を後にする。移動用のほうじんを使うので別荘にはすぐに着くし、向こうにある程度の物はそろっているけれど……そこまで考えて、母の表情に安堵や焦りが交ざっている事に気が付いた。

 それもそうだ、母にとってはアンジュも大切な子どもで、守るべきもの。

 誘拐そうどうの時、額から血を流しながら必死に私に向かって『だいじよう?』と問いかけ続けた時の母の顔は、私だけでなくアンジュにも向けられるものだ。

 今は私ががいしやのようになってしまっているが、母としてはアンジュにも幸せになってもらいたいのは当然だろう。父が異を唱えなかったのも、母と同じ気持ちだからだ。

 一刻も早くこの大きな問題を解決したい母にとって今は一分一秒でもしいじようきようで、だからこそ解決案を思いついた以上すぐに実行したい気持ちもわかる。

 元々思い立ったらすぐ行動、みたいな人だし。

 苦笑いしながら母といつしよに地下の部屋へと入る。部屋には五人ほど乗れそうな移動用の魔法陣が広がっていた。行き先の設定や魔法の発動のための操作ばんを母が動かし始めたのを見て、魔法陣の上へと足をみ入れる。読みかけの本を持って来れれば良かったのに、なんてぼんやりと考える。

 別荘には海が望めるベンチがあったはずだ。人も来ないし、母の言う通り家より気を遣わずに過ごせるかもしれない。長期療養という理由なら仕事を覚えるための時間は少しゆうが出来るだろうし、庭で読書したり絵をいたりして過ごすのも楽しいだろう。

「そうだ。母様、出来れば先生にはまだ教わりたいの。別荘でも大丈夫かしら?」

「……そ、そうなの? あなたが良いのならたのんでみるわ」

 両親とも、あいのない彼の事は苦手だ。返事の大半が『はい』か『いいえ』の言葉だけ。あいさつ等はしっかりとするが、勉強時間が終わった後にお茶にさそっても『必要ありません』と冷たいふんの一言でち切られるので、母のまどう気持ちはわからなくもない。

 基本的にき放してくる先生相手にここまでなついている私の方がおかしいのだろうが、彼は私にとっていつだって尊敬出来るあこがれの先生だ。

 両親から頼んでくれるならばきっと家庭教師は続けていただけるだろう、良かった。

「よし、発動出来たわ。シレーナごめんね。すぐに荷造りして、必要な物を準備するから。夜には父さん達と一緒にそっちに行くからね」

「ええ。仕事の引継ぎで急ぎの分があるから、向こうでまとめてわたすわね」

 私に笑いかけてから、母は慌ただしくこちらに背を向ける。魔法陣がかがやいて母の姿をかき消していく。急いで荷造りに行こうとしているらしい母がつまずいたのが見えた瞬間、周囲の風景は一変し、私は深い森の中で輝きの消えた魔法陣の上に立ちくしていた。

「……えっ?」

 思わずこぼれた疑問の声が、周囲の木々に吸い込まれるように消えていく。

 別荘周辺にも森はあるがここまでうつそうとしたものではないし、何よりも魔法陣で辿たどり着く先は別荘前のしっかりとそうされた道のはずだ。

「どうして? ここは……っ!」

 つぶやいた瞬間ここがどこだか気が付いて、一気に血の気が引いた。とつに口元を両手で押さえながら足元の魔法陣を何回か踏んでみるが、役目を終えた魔法陣はうんともすんとも言わず、再び光を発する事も無く静かに消えていく。

 遠くから聞こえたけものの声にびくりと体がねる。

 ここは、魔物達が住む島だ。人の住む島と魔物の住む島が完全にかくされてから長く、この島には人をおそう魔物しか住んでいない。今は私の家が主体で管理しており、立ち入る事が可能な人間は限られている。各国の王家から許可を得た人間、たとえばフォード先生のような研究職の方等で自分で戦える人は入る事が許されている場所だ。

 この世界では海と同じようにおそろしい場所というにんしきで、海が平気な私にとってはゆいいつきようを感じる場所でもあった。むしろ魔物の島の方が内情をあく出来ている分危険が明確にわかり、頭の中でけいしようがガンガンひびいている。

 おそらく母がいつものドジを発揮して操作をちがえたのだろう。

 父が管理もかねて時折様子を見に来ている島ではあるが、島から魔物を出さないようにするために設置型の移動魔法陣は無い。ある程度戦える父だってしっかり武装してぼうぎよ魔法をいくつも重ねけし、兵士達と共にばんぜんの態勢を整えてから来る場所だ。

 そんな所に、戦うすべなんて無い私が一人きり。

 自宅の移動魔法陣は一方通行で、だんは持ち運び出来る移動魔法の道具を使って帰っている。いつもならばかばんに一つは入れてから出発するし、別荘にもその道具は置いてあるのだが、今回は急かされるように部屋を出たので取りに行くという発想すらなかった。

 心臓がどくどくと音を立てている。

 あらくなりそうな呼吸を必死になだめてなるべく気配を消そうと努めるが、こんな事で魔物相手に存在をかくせる訳も無い。周囲を見回しても身を隠せそうな建物は無く、これでもかというほどに木が生えているだけだ。

 ここに居ればその内だれかが気付くだろうか……いや、おそらく良くて数時間は先だ。

 父とアンジュは城へ行っているし、おそらく帰宅はおそいだろう。母は荷造り中だろうし、母のドジっぷりからしてすんなり終わるとも思えない。メイドもそれを手伝っているはずだ。その荷物だって、夜に別荘に来る時に持ってくる可能性の方が高い。

「……夜、まで?」

 口の中でだけ呟いた声に絶望しそうになる。夜になれば魔法陣の操作盤を見て行き先が違う事に気が付くだろうが、それまでに魔物と出会ってしまえば私の命は無い。もうじゆうよりもどうもうで、人を襲う魔物だらけなのだ。かすかにグルルといううなり声が聞こえてきて泣きたくなる。べつそうでの時間を楽しみにしていたのに、急にごくに突き落とされた気分だった。

 夜まで魔物に見つからないようにするしかないが、同時にここからあまりはなれないようにしないと、向こうも私の居場所を突き止められない。大きな木の根元にある草むらの中でなるべく体を小さく丸め、息をひそめる。きんちようたおれそうだがこれ以外の方法は無い。

 じっとその場にとどまり続けて、なかなか進まない時間にあせりながら二時間ほどえただろうか。幸い周囲に魔物はいないし、このまま隠れ続けていれば……そう考えたのと、私の前にきよだいな何かが降ってきたのは同時だった。

 地面がれるほどに大きなしようげきと、目の前に広がる巨大な口ときば

 前世のおくはあったが、それでも〝死〟というものを強く意識したのは初めてだった。

「あ、あ……」

 スローモーションのようにゆっくりと感じる時間。

 くまを数倍大きくしたような魔物が私をひとみに映しながら笑ったように見えたと同時に、げなければ死ぬと気が付いた私の体は動き出した。長時間座りこんでこわっていた足がなんとか一歩踏み出したところで、周囲を魔物に囲まれている事に気が付く。右を見ても左を見ても、それこそ木の上にまで。たくさんの魔物が私を見て唸り声をあげている。

 一歩後退したと同時に世界がいつしゆんぐらりと揺れて、ふらついた体を支えきれずにしりもちをついた。何が起きたのかわからない、眩暈めまいなんて起こしている場合では無いのに!

 倒れこんだひようこしけたらしく、立ち上がれない体にいかりすらいてくる。自分の息の音が魔物の声にかき消されていく。逃げなければ助からないのに動けない……一歩二歩ときよめてくる魔物達はこわがる私で遊んでいるように見えた。

 自分の息をんだ音がいやに大きく聞こえた瞬間、一番大きな魔物の姿が目の前から消えて、直後に足に激痛が走る。

「……っ」

 人間、本当に痛い時は声が出ないものなんだろうか。足に突きさる牙と流れ出た真っ赤な血を見て、頭の中の冷静な部分がそんな事を考える。逃げようといた体が地面に倒れこむ。視界にたくさんのものの姿が映り、全身に次々と激しい痛みが走った。

 全身が焼けるように熱くて、それ以上に熱く感じるなみだほおを伝っていく。

 私、死ぬの?

 こんな、意識のあるまま魔物達に体を食い散らかされて?

 嫌だ、怖い、そんな気持ちとは裏腹に、一気に失った血のせいで視界はどんどんゆがんでいく。頭がくらくらする、このまま意識を落とせば死は確実だ。

 意識のある状態で手足の先から食われていくのと、どちらが良いのだろう?

 そんな思考も、どんどん意識の海の中にしずんでいく。

 倒れたまま必死にばした手は血で真っ赤に染まっていて、伸ばす先にはもちろん魔物がいるだけだ。

 こんな死に方をするくらいなら、いっそ島のはしから飛び降りて海の中で死にたかった。

 そんなどうしようもないこうかいが頭をよぎったところで、がん、と衝撃が走る。

 その音を最後にまるで機械の電源でも落ちるかのように、意識はぷつりとえた。

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