第一章 私の日常①

 この世界が前世での過去の時代と違っていて良かったと思うのは、身分が高くても使用人に何もかもやらせるわけではないという事だろう。もちろん王家となれば話は別だが、公爵家でもよほどかざる時やパーティがある時以外は、日常の家事を自分でやっても構わない。何もかも他人に世話をしてもらうのは気をつかうし、自分のペースでやりたい事もあるので私としてはありがたかった。

 もちろん使用人をやとっている家もあるが、使用人とのきよかんも含め、元の世界と比べると色々とゆるい。我が家も古くから勤めてくれているメイドが一人いるが、住み込みというわけではないので居ない時間もある。警備に関しては何かあれば移動魔法が使える憲兵達に通報が行くので、元の世界よりも治安は良い。

 この緩さはゲームの設定が元になった世界だからなのかもしれない。公爵家である我が家はむすめ二人だが、あとぎは男でなくても良いのでお家問題ともえんだ。この緩さに助けられている事は多い。何というか、いとこ取りで私には生きやすいかんきようだった。

 しかし、この自由さは結婚して王家に入るまでしか味わえないものだ。おうになると今よりもずっときゆうくつになるだろう。けれどその分やりがいのある仕事が増えるので、私生活を使用人に手伝ってもらえるのは助かるのかもしれない。

 そんな事を現実とうのように考えながら、母が自分で作った朝食をひっくり返したのを見つめる。この光景もいつもの事だ。私が鍋にかけた中身が零れない魔法は発動しているのであせる必要も無い。

「ごめんなさいね、みんなはしていないかしら?」

「誰も怪我はしてないわ母様。みんな慣れてしまっているのだもの」

「全員けるのが上手うまくなったからなあ……シレーナ、片付けをたのむぞ」

「ええ」

 居間には普段なら私の後に起きてくる父とアンジュもおり、メイドもいつしよになって、半泣きでゆかに座り込む母をなぐさめていた。母の周りには割れたガラスの破片が散らばっている。

「母様はだいじよう? 怪我はないかしら?」

「大丈夫よ、でもまたお皿を落として割ってしまったわ……」

「破損防止の魔法が切れてしまったのね。私が片付けるから、母様は父様と一緒にテーブルの準備をお願い」

「もう、どうしてこうなっちゃうのかしら」

 今にもなみだを零しそうな母に手を貸して立たせた父が、母を慰めながらしよくたくの方へ向かう。その背を見送りながら、派手に散らばった破片に向かって空中で軽く手をった。手首にはめたブレスレットに付いた青い魔法石が光り、周囲に散らばる破片が浮かび上がる。

「申し訳ありませんおじようさま! こちらに」

「ありがとう」

 メイドが奥から持ってきてくれたふくろに向かってもう一度手を振れば、空中に浮かんだ破片がその袋めがけてゆっくりと移動していく。

「私も姉様くらい魔法が使えればいいのに。欠片かけら一つ浮かせるのでせいいつぱいなのだもの」

「練習するなら見てあげるわよ」

「え、いいのっ? あ、でもまだ課題が終わっていなかったわ」

「なら、それが終わってからね」

 がっくりとかたを落とすアンジュの空色のかみぐせを発見して、ついおかしくなって笑ってしまった。こうしんおうせいで色々な事に目が向いてしまう彼女の髪が乱れているのはめずらしい事ではない。髪と同じ色のひとみは楽しい事やほうっておけない事を見つけるのが上手く、そうやって興味を持った事をきっかけにたくさんの縁をつなげている子だ。

「アンジュ、寝癖が」

「えっ? ごめんなさい、鏡を見てくるわ!」

 ばたばたと居間を出ていくアンジュが一瞬何かにっかかって転びかけたのを見て、メイドからも乾いた笑い声がれる。そのまま転んでしまう母とはちがってしっかり体勢は整え直すけれど、やはり似た者親子だ。

 変なところでけているのは母に似たのだろうと、父は以前笑っていたけれど。

 母は天然で抜けているところがある、というかみようなところでミスを連発する。

 何もない所で派手に転び、鍋や食器などの手に持っていた物を落とすのは当たり前。さいを忘れて買い物に行き、買った物を忘れてくる事もひんぱんにある。

 体は健康そのもので、これはすべてドジなだけというのだから、もう笑うしかない。

 しかしそのほかの能力は高く、私達の家が治める町の人達からの評判は本当に良い。実際に父が母とさいこんしてからこの町は色々な部分が改善された。母は不便だったり改善可能だったりする部分を見つけるのが上手く、それをどうすれば良くなるのか具体案が出せるほどの様々な知識を持っている。

 私も前世のおくからこういう物や制度があればいいのに、と思いつく事もあるが、それをこの世界の技術を使って形に出来たのは母のおかげだ。前世の事をこの世界に落とし込むのはひどく難しい。しかし私の提案を聞いた母は自分の頭の中の知識を使い、いとも簡単に実現してしまう。母は私の発想力をめてくれるが、それは前世の記憶が前提のもの。前世の記憶など持っていない母の知識の深さを私は心底尊敬している……このドジっぷりだけは真似まねたくはないけれど。前世では天は二物をあたえず、なんていう言葉もあったが、きっとこういう人の事を言うのだろう。

 母本人もこのドジな部分を直そうとしているのだが、なかなかうまくいっていない。私達家族もそれを知っているので、食器が割れようが鍋を落とされようが、母がやると言っている間は無理にめさせはしなかった。せめてもの対策として、割れそうな食器には破損防止の、そして鍋にはひっくり返しても中身が零れないほうをかけている。

 視線を母の方に移すと、父と一緒に朝食を並べ終えたところだった。

 私もちょうど空中にいていた破片がすべて袋の中に収まり、日課になった早朝一番の片付けが終わる。袋の口を閉じたメイドは苦笑いのままだ。

「いつも申し訳ありません。私もこの魔法を使えればいいのですが」

「気にしないで。こちらこそいつもありがとう」

 この破片を集めた魔法は浮かせるのは簡単でも、複数の物をまとめて同じ場所に向かって動かすという部分が難しい。私も最初は出来なかったが、悲しいかな、毎日使っている内に得意な魔法の一つになってしまった。大きさや重量の制限はあるがはなれた所にある物を動かせるのは本当に便利だと思う。得意になる魔法が片付けや家事に直結する魔法ばかりなのが私の日常を表しているようで、深く考えると笑えてくるが。

 苦笑いしながら片付けを終えたと同時にアンジュがもどってきて、朝食の時間は始まった。

「やっぱり自動で洗い物をしてくれる道具を買ってみない?」

「うーん、でもお皿を割る回数も減ったし、もう少しがんってみたいわ」

「そう……」

「姉様の魔法が追い付かなくなって、家のお皿が全部無くなる可能性が出てきたわね」

「アンジュ?」

「ごめんなさい母様」

 いつも通りのさわがしくて楽しい朝食。この後は私にとって一番の楽しみの時間だ。


 色々と片付けや準備を終えてからしばらくち、私は自室でフォード先生に見てもらいながら魔法練習用の人形と向き合っていた。

 人の怪我をいやす魔法は、魔法自体の理論もだが人体についての知識がなければ使えない。そしてこの世界の魔法はゲームで見るような怪我や病気をいつしゆんで治せるものではなく、痛みを取り除いたり治りを早めたりするためのものだ。薬と似た役割とでも言えばいいだろうか、いつぱん的には痛み止めや消毒に使われる事が多い。

「……魔力の流れがちゆうで止まっていますね」

「はい、どうしてもここから進まなくなってしまって」

 使った魔法は予定していた人形のうで全体に行きわたる事なく、ぜんわん部分で止まっている。

 机に向かう私の後ろから人形をのぞき込んでいた先生が、長いブルーブラック色の髪の毛を耳にけながら教本をめくった。

 私専属の家庭教師であるフォード先生は、こうして定期的に家に来ては、王家にとつぐためにひつの知識や様々な魔法の指導をしてくれている。教本を見つめる髪と同じ色の瞳は感情を宿しておらず、私にいつも冷たい深海を思い起こさせた。初対面の時に冷たい印象を受けた顔立ちは整っているが、表情がほとんど動かない事もあって人をきよぜつしているように感じる。実際に人が好きではないと本人からも聞いた事があるが、ずっと勉強を見てもらっているせいか最近では少しやわらいで、うっすらとだが口角が上がる事もあった。

「今のあなたの力ならば問題なく出来るはずですし、コツがつかめていないだけでしょう。一度私がやって見せますので、その後に人体図を見ながらもう一度やってみましょう」

「はい」

 開いたページを指し示しながら先生が魔法を使うと、それが当然であるかのように人形全体に魔法が行き渡る。一見簡単そうに見えるが、実際には相当ハイレベルな魔法だ。

 こうも簡単に治癒魔法を全身にかけられるのは、先生のようなへきかいの魔術師の方々だけ。つうりよう職の方でも全身一気には無理なので、なおさら私には無理だろう……せめて腕一本を一気におおうくらいにはなりたいものだけれど。

 世界中に数えるほどしかいない碧海の魔術師の方々の中で、先生は少し異質ともいえる方だ。希少な能力から高い地位を与えられ、時には王家に直接意見する事が許されるほどのとくしゆな立場である彼らだが、その中でも先生はゆいいつ医師として働くのではなく、薬や治癒魔法の研究を仕事にしている。その知識や研究の成果は国の発展へのこうけんすさまじく、また、海の中について一番くわしいとされるのも彼だった。研究職である事でかかえているかんじやがいない彼は、海にもぐひんが他の方々よりも高い。

 そんな立場の方が家庭教師に来て下さった時の喜びは今でも覚えている。家族達が目を見開くほどわかりやすかったようで、今もたまに笑い話にされるくらいだ。

 もっとも、どんな海の話が聞けるだろうと大きな期待を持っていた私の前に現れたのは、ひとぎらいで会話も最低限のみだと評判のフォード先生だったけれど。


『よろしくお願いいたします。せいいつぱいがんります』

『よろしくお願いしますっ!』

『……よろしくお願いいたします』

 初めてのあいさつの時、がおの私やアンジュとは対照的にいつさい表情を変えなかったフォード先生。よろしくという言葉一つからも拒絶がありありと感じられて、アンジュの顔はじよじよに引きつっていった。そしてそれはきゆうけい時間になっておとずれた母も同じで……。

『おつかれ様です。そろそろ休憩でしょう、お茶をどうぞ』

『……ありがとうございます』

『母様ありがとう!』

『母様、私が運ぶわ』

『ありがとうシレーナ。先生、二人の事を見ていただいてありがとうございます』

『いえ』

『……二人の勉強はどうですか? 問題は無いでしょうか?』

『特には』

『…………では引き続きよろしくお願いいたします』

 これ以上話しかけてくれるなというオーラがただよう先生は何度通って来ても変わらず、母とアンジュはよく言葉を探しあぐねてまどっていた。会話を最低限で済ませたい、そんな思いがありありと感じ取れる人だ。

 そんな事がり返され、アンジュの先生に対する苦手意識はどんどん強まっていった。

 彼は私の家に来るまでにも、国からのらいでいくつかの良家の家庭教師を引き受けていたそうだ。しかし元々人とかかわりたくない上に教え方が厳しいため、毎回その空気に負けた生徒達からへんこうを求められる形で家庭教師をめている。

 結局私の家でもアンジュが「先生のふんがどうしても苦手」とうつたえたので、一度は家庭教師がわりそうになってしまった。少しあんした様子だった先生に申し訳なさを感じながらも、専属で残ってほしいと引き留めたのは私だ。

 そうしてアンジュがいなくなったのを良い事にかぶっていたねこを取った私は、顔をしかめる先生相手に普段ならばするえんりよというものをかなぐり捨てて、海について聞き続けた。

 言動から強い拒絶は感じるが、私の中で彼の印象はとにかくな人、だ。

 彼の立場ならいくら王家からの依頼でも断る事は可能なのに、どんなおもわくであれ教えには来てくれる。疑問に思った事を聞くと、知りたかった答えの倍以上になって返ってくる事も多く、説明も上手うまい。質問に答えない事もないし、指導に手をく事もない人だ。

 教え方は確かに厳しいが言っている事はちがっていないし、アンジュと二人で教わっていた少しの間だけでも私の知識やほうの腕はやく的に向上した。

 そもそも碧海の魔術師に教わるというのは貴族といえど中々出来る事ではないし、私自身が彼の性格を苦痛に思っていなかった以上、替えてもらう理由なんて一つもない。

 そして何よりも、私は海の話が聞きたかった。

 彼は私が休憩時間に海について質問を繰り返しても、いやいやながらちゃんと答えをくれる。もちろん先生が話したくなさそうにしている時には口をつぐんだが、ほかの人に向けるづかいの半分も先生相手では出来ていなかったように思う……大変申し訳ない。

 海にえんがない一般人向けに公開されている情報はとても少ないので、海の事を知る数少ない人間であるフォード先生との縁を手放してなるものかと必死だった。

 前世で潜り続けたあの青の世界は、この世界でも変わらないのだろうか。

 住んでいる生き物はどんな子達なのだろうか。

 スーツもボンベも無く、着ている服のまま潜るのはどんな感覚なのだろうか。

 休憩になるとたんだまり込む先生にもお構いなしで質問を投げかけ続け、そしてぽつぽつと答えてもらって、やっと知れた海の事がうれしくてお礼を言い続けた日々。そうやって遠慮なく質問を投げ続けたからこそ、今の私達の関係は出来上がったのかもしれない。

『私に嫌な顔一つせずにそこまで話しかけてくるのは、あなただけですよ』

 先生がほんの少し細められた目とわずかにえがいた口でそう言った日から、彼の冷たい雰囲気は少しかんされたように思う。私は彼をフォード先生と家名ではなく名前の方で呼ぶようになったし、町中で会った時に話しかけても嫌な顔をされる事は無くなり、彼の方から海の話をしてくれる事も増えた。どれも気のせいかと思うほどわずかな変化だったし、家族には今でもだいじようかと聞かれるくらいにはさいなものだったけれど。


 そんな先生に何度か見本を見せてもらいながら、魔法の練習を続ける。

 彼が魔法を使うたびに光る魔法のばいたいであるブローチは、以前私がおくった物だ。

 碧海の魔術師は青色系統の石が付いたばいかいを使うのが主流だが、彼はずっと赤い石が付いたネックレスを使っていたので少し気になっていた。本来なら家族や友人が『無事にもどってきて欲しい』という願いを込めて、海と似た色の石を贈るのが一般的だ。そうでなくとも王家から贈られるはずなのだが、先生はそれを身に着けていない。だから拒絶がうすれてきたころ、彼のかみや目と同じブルーブラック色の石が付いたこのブローチを贈った。

 その翌日から海に潜るという先生に、無事に帰って来て下さいとわたしたブローチ。

 また教えに来てくれる日を楽しみに待っています、と言った私とブローチを何度も見比べる彼のあわてっぷりは、今でもはっきりと思い出せる。使い続けられているブローチが、私の気遣いがめいわくでなかったという事を示しているようでとても嬉しい。

 お返しに、と彼がくれた青い魔法石のついたブレスレットは、今も魔法の媒介として愛用させてもらっている。海の中で取れたというこの石は私がこの世界で初めてれた、海からじかに取ってきた物だ。手渡されたそれに大興奮して、満面の笑みでお礼の言葉を繰り返す私を見た先生がじやつかん引いていたのは、あまり思い出したくないけれど。


 そうしてすっかり私専属の家庭教師として定着した先生に見本を見せてもらい、助言をもらって何度かちようせんした魔法は、最終的に人形のうで全体を光らせる事に成功した。

「これだけ出来れば問題ないでしょう。後はどの程度まで効果はんを広げられるかです」

「はい、ありがとうございます」

 お礼の言葉を口にしたしゆんかん、部屋の外からガシャン、という音と共に母の悲鳴がひびいてきた。悲鳴に反応してとつに立ち上がりかけたが、今は良いのだったと思いなおす。

「……相変わらずのようで」

「回数は減りましたよ。その、少しだけですが」

「ほとんど変わっていないように思いますが。あなたの手間も減っていないようですし」

「それは、そうなのですが……」

 以前は家庭教師中でも片付け等に呼ばれていたのだが、先生が勉強中は他の人に任せるように父に言って下さったので、この時間は後始末を手伝わなくても良くなった。片付けに魔法が必要なほどのさんの場合は、勉強後に私が片付けるのに変わりはないのだが。

 父と義母の家系は魔法があまり得意でないらしく、私が得意なのは実の母親に似たかららしい。メイドの女性は多少使えるけれど、結局この家で一番魔法を使いこなせているのは私だし、そもそも彼女には、別の仕事をして貰うために来ていただいているのだ。買い物や父のお使いなど用事で出かけている時も多いし、私が片付けてくれとたのまれるのがいつもの流れだった。

 今日も私が片付けかな、なんて思いながら一区切りついたという事で一度休憩に入る事にして、カップに紅茶を注ぐ。休憩のお茶は初めの内は母が持ってきてくれていたが、ひっくり返して大惨事になる事が多いので、今はあらかじめ準備して私がれている。

「もう知識の方は大丈夫そうですね」

「ええ、先生のおかげです」

「私が教える前からしっかり勉強出来ていたように思いますが」

「王家にとつぐ身ですから。町の方々を守る立場から国の方々を守る立場になるのです。知識も魔法の腕もあればあるだけありがたいです」

「……そう、ですね。来年のいまごろはもう、あなたは王族なのですね」

「ええ。先生から勉強を教われなくなるのも海の話が聞けなくなるのもさびしいですが」

「本当に変わっていますね。私と関わりたいと思う事もですが、そこまで海に興味があるというのもめずらしい」

「先生と話すのも、海の事を聞くのも、本当に楽しいですよ」

 私の言葉を聞いた先生の口角が少し上がり、目もほんの少し細められる。この表情の変化も、多少の軽口を交える事が出来る会話も、きよぜつでいっぱいだった最初の頃との違いを明確に表しているようで嬉しい。

 ……実はほんの少しだけ先生にどきどきする事がある。あわいとすら言えない、小さなはつこいのようなおもいをいだいた相手。かなう事は無い、そもそも叶える気すらないこの気持ちは、良い友人であるこんやくしや相手には感じないものだ。大切な相手ではあるが恋心がない王子とでは、きっとこれからも感じる事は無いだろう。だから、この考えただけでがおになれるくらい子どもじみた恋心を教えてくれた先生には感謝している。

 知識が深くて教え方も効率的で、海に関するたくさんの事を知っていて、それをしげもなく私に教えてくれる人。色々と言う人もいるが、私にとっては最高の先生だ。

 きゆうけいは終わりです、という彼にこうていの返事をして、教本に向き直る。彼に勉強を教わる事が出来るのも後少し。あこがれでもあるこの人から少しでも多くの事を吸収しておきたい。


 そんなじゆうじつした勉強の時間が終わり、先生を見送ってから町へとり出す。

 夕方からラティル殿でんと会う約束をしているが、その前に行かなければならない所があったからだ。そこでの用事に時間がかってしまったので、家に帰った時には彼はすでに来ていたけれど。居間で家族と話していた彼がとびらを開けた私に気が付いて笑う。

「やあ、おかえり」

「ただいま、お待たせ。おそくなってごめんね」

 敬語もけいしようも取って気軽に話そう、彼がそう提案してきたのは婚約が決まってすぐだった。ふう間で遠慮するような関係では国のためにならないから、と。公共の場では私、という一人称を使うラティルも、こうして二人で会う時や家に来た時は僕、と言っている。周囲からの重圧を背負う必要がある王家で、はんりよ相手に気を抜けるのは良い事だ。

「大丈夫、そんなに待ってないよ。アンジュがこわしたへいの謝罪に行っていたんだろう? いつもご苦労様」

「あはは、ありがとう」

たよりがいのある姉を持って、アンジュも幸せだろうね」

 ラティルが意味ありげに今まで話していたらしいアンジュに視線を向ける。気まずそうに視線をらすアンジュを見た両親は微笑ほほえましそうにしているが……そういえば、アンジュはそろそろ家を出なければいけない時間だろう。

「アンジュ、そろそろ時間じゃないかしら?」

「え、本当だわ! 母様行きましょう」

「昨日みたいにさわぎにっ込んでいくのはひかえてね」

「わ、わかっているわ姉様!」

 絶対にわかってはいない、いや、わかっていても体が動くのだろう。この注意ももう数えきれないほどにしてきたが守られた事は無い。

 ラティルにあいさつをしてから慌てて飛び出していくアンジュと母を見送った後、父も仕事があるからと自分の部屋へ引っ込んでいった。王族が来ているというのにこのゆるさ、ラティル本人がこのじようきようを好意的に見ている事も大きいが、本当にこの世界は緩い。

 私自身も護衛をつけずに一人で歩き回れるし、次期王であるラティルも本当に時々だが一人で町中を歩いていたりする。これも元々が乙女おとめゲームの世界だからなのだろうか。ゲーム中のこうりやく相手が常に複数の護衛付きだったら、れんあいどころではないだろうし。

「アンジュ、昨日塀を壊した時に知り合った子とさっそく仲良くなったらしいね」

「ええ、今から母様といつしよにその方の家に事情を説明しに行くそうよ」

「君の方はだいじようだったのかい?」

「むしろ助かったと言われてしまったわ」

 昨日、めている人達に出くわしたアンジュがをしそうになっていた女の子を助けようと騒ぎに乱入し、近くの家の塀を一部かいしてしまった。ほうのコントロールがうまくいかなかったらしいが、揉めていた人達がそれにおどろいた結果、うやむやになって騒ぎは収束。アンジュは女の子と仲良くなり、今日はその子の家に騒ぎの説明をしに行く事になっていた。

 そして私は壊してしまった塀の持ち主に謝罪に行っていた、というわけだ。その家のご主人いわく、騒ぎを起こしていた人達は家のそばひんぱんに揉め事を起こしていたらしい。昨日のアンジュの乱入がきっかけで改善に向かいそうだと喜んでいたのが救いだが、立派なそうしよくほどこされた塀は結構な惨状で、思わず冷やあせが流れたほどだ。しっかり謝罪とべんしようをしておかなければ、いくらなんでもまずい事になる。

 だがこれで何のこんもなく、塀の持ち主の家とも、アンジュが仲良くなった子の家とも良いごえんが結べそうだ。

 アンジュはゲームの主人公だった名残なごりなのか、主人公気質というか、トラブルがしょっちゅうい込む……というよりもそうどうに自分から突っ込んでいく。そしてその結果、新たな縁を結んでは良い方向にもっていくのだから、さすがだとしか言い様がない。

 しかし本人が怪我をする事もあるし、私も巻き込まれて傷を負った事がある。せめて少し考えてから動いてくれるといいのだが……彼女が首を突っ込んだ騒ぎは結果的に家のためになる事が多く、強くおこれない。色々と問題が起こる事も多々あるが、最終的に良い結果になるのは心底うらやましかった。夜にはこの弁償についての書類を書く必要があるが、今回の件でかかわった二つの家は力がある家で、我が家にとっては利益の方が大きい。

「それにしても、もうお城にまで話がいっているのね」

「ああ。それに午前中に君の母君が坂道で転がる果物を追いかけているのも見たよ。坂の下にいたうちの兵士が拾ってわたしていた」

「あ、はは……」

 私のかわいた笑いを見た彼が、はははっ、と心底かいそうに笑う。彼のアンジュと似た空色のかみひとみが、窓から差し込んできた夕日でオレンジ色に染まっていた。

 こぼれそうになったあくびをかみ殺しながら、窓の外の夕日をちらりと見る。き込んできたおだやかな風が心地ここちいいのがまたねむさそう。苦手な早起きのせいか、それとも仕事が多いせいか、どうもこの時間は眠くなる。せっかく彼が会いに来てくれているのに……眠気を吹き飛ばすように彼と会話を続ける。

 ラティルはその笑い声の通り、明るくさわやかな人だ。いやみも無く、ふざけ過ぎずな部分もあり、友達も多い。王子とは思えないほどにフランクな彼の態度のおかげで、王家に嫁ぐプレッシャーがかんされていると言っても良い。将来結婚して国を治めていく身としておたがいの事は知っておいた方が良い、と言い出したのも彼だ。その言葉に甘える形で、どちらかに用事がある時以外はこうして夕方に彼と会うようにしている。

「シレーナは午前中勉強だったんだろう? 魔法の進みはどうだった?」

「ようやくうで一本分成功したわ。でも全身はきっと無理ね」

「腕一本でもすごいじゃないか。僕はいまだに手のひらで終わりさ」

「その分、火の魔法の性能はすさまじいじゃないの。羨ましいわ」

「火の魔法って言ってもなあ。大昔ならばともかく、遠いうきしまに魔物がかくされている今じゃこうげき魔法の必要も無いし、あまり使い道がないよ。便利ではあるけどね」

「移動用のほうじんから魔物が出てくる事はまず無いものね。父が管理中に魔法陣を見せてくれた事があるけれどふういんは厳重だし……アンジュが魔物ってどんな感じなんだろう、ってこっそり魔法陣を見ていたところを父に見つかって怒られていたけれど」

「アンジュも相変わらずだね」

 目を細めて笑うラティルのふんやさしいものへと変わる。頻繁に騒ぎが起こる我が家の様子を、嫌がりもせずに聞いてもらえるのはありがたい。

「おかげさまで私の魔法は大体トラブル解決がきっかけになって上達しているわ」

「……がんれ!」

 少しの間の後、良いがおの彼が私のかたをポンとたたく。これも今まで何度も繰り返されてきたやり取りだ……みような気分になるのはなぜだろう?

「どうせなら治癒魔法が上達してほしかったわ。でもみんな私が治せるような小さな怪我はあまりしないのよね。お皿が割れても転んでも怪我はしないし。良い事なのだけど」

「君の家にいると何かをける動作や受け身が上手くなるからね」

 笑い続けるラティルの顔を見ていると、なんだか二人きりのこの光景が久しぶりな気がしてくる。かんに少しなやんで、原因に思い当たった。

「そういえば、最近はいつもうちで会っているわね」

「え? あ、ああ、そうだね」

 少し前まで私達が話す場所は城の中にある庭園だった。すぐ下に海が見える私のお気に入りの場所。夕日に染まる海面にれる私を見たラティルがそこを待ち合わせ場所にしてくれていたのだが、最近はずっとこうして私の家で会っている。

「……なあ、シレーナ」

「何?」

「あー、いや、その……ごめん、なんでもないんだ」

「なんでもない、って」

 確実に何かあるだろう、感情が顔に出やすい彼はわかりやすく悩んでいる。ただ、今は私には言いにくい事なのだろう、という事もわかった。

「何かあったら言ってね。言いたくなったらでいいから」

「……ああ。ありがとう」

 幼少期から一緒にいて、交流を続けてきた身だ。この感じだと話してくれない事くらいはわかる。話題を別のものに変えて、雑談を続けた。


 辺りがうすぐらくなってきたころにラティルは城へ帰り、アンジュと母も帰宅してきた。朝と変わらない騒がしい夕食を終えて、各自が部屋へと引っ込んでむかえた夜の時間。

 る準備を済ませた状態で、机の上の書類に目を通してサインを書き込んでいく。一時間ほど集中し、アンジュがこわしてしまったへいに関する書類の作成も終え、今日の仕事はかんりようだ。とびらの向こうは静まり返っており、起きているのは私だけだとわかる……また今日も私が最後か、と急いで机の上を片付けた。

 朝と同じようにこわった体をばしてから、ベッドへともぐりこむ。

 明日は勉強ではなく仕事の日だ。先生は来ないが、だからと言って時間が空くわけではない。覚える事はたくさんあるし、やるべき事も山のようにあるからだ。しかしやりがいはあって、仕事をするのは楽しかった。国民から良い評価をもらえるように、そしておうがこの人で良かったと思ってもらえるようになりたい。

 努力は苦ではないし、この辺りは前世で海に潜っていた時と変わらないのだろう。

 目を閉じるが、すいは中々おそってこない。今世の私は寝つきも悪くて嫌になってしまう。食事もしっかりとっているし、運動もちゃんと出来ているはずなのだが。

 それでもこんな風にいそがしくにぎやかで平和な日常がずっと続くのだと、私はいつさい疑っていなかった……疑っていなかったのに。

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