プロローグ

 早朝、部屋の外からガン! と大きな音がひびいてくる。続いてガランガランと何かが転がる音が聞こえ、おどろきで体がねて飛び起きた。次に女性の悲鳴が響きわたったところで、はやがねを打つ胸のどうおさえるようにむなもとれる。ベッドの上で上半身を起こしたまま、き特有の重い頭をかかえてため息をいた。音の原因は知っているので、あわてて部屋を出る必要が無いのはわかっている。子どものころから毎朝のように聞こえるこのそうおんすいみん中にとつぜん響くためいまだに慣れず飛び起きてしまう。

 ……やる事は山積みだし、朝起きるのが苦手な身としてはこれでいいのかもしれない。決めた時間には起きられるのだが、どうにも毎朝だるくすっきりと目覚められないため、この音に後押しされる形で起き上がっている。

〝前〟はむしろ朝は大得意で、目覚めもすっきりとしていたのだが。

 しようしながらベッドから降り、すきから朝日が差し込む真っ白なカーテンを開ける。窓の外は真っ青な空が遠くまで広がっており、白い雲とのコントラストがとても美しい。

 先ほど聞こえた大きな音とは正反対のへいおんに満ちている。

 窓を開けるとさわやかな風が部屋の中にやわらかく入ってきて、その風と暖かい日差しを全身に浴びながら体をググッとばした。

「……この光景も、もう当たり前のものになったわね」

 私がいる二階の部屋の窓の真下にはがけがあり、はるか下にはうっすらと海が見えて、太陽を反射した波がきらめいている。

 遠い遠い、この世界に生まれてから触れる事すら出来なくなった、私が心の底からがれる青い海。

 シレーナと名付けられて生まれ、そして育ってきたこの世界。

 日々を送る中で突然思い出した一人の女性の人生のおく、この世界とはまったくちがう世界で生きてきた「前世」と呼ばれるもう一つの私の人生。

 海にりようされて、もぐるのが大好きで、スキューバダイビングのインストラクターとして働きながら、休日は海中のせいそうやサンゴの植え付けなどのボランティアをして……思い出した記憶はあの青い水の世界の事ばかりで、前世の家族や友人の事はほとんど思い出さなかったあたり、前世の私がどれだけ海の中を気に入っていたのかがわかる。

 けれどこの世界での私は、海に潜るどころか海面に触れる事すら出来ない。

 窓の外から少し視線を外して部屋の中を見回す。一人で使うには十分すぎるほどの広い部屋には美しい調度品や絵画がかざられ、てんがい付きのベッドには柔らかなしん、アンティーク調の机の上にはせいとんされた仕事関係の書類やぶんぼうが置いてある。部屋のかたすみにあるごうそうしよくほどこされた鏡の中では、ゆるくウエーブのかかった明るい青色のかみこしまで伸ばした私が、同じ色のひとみでこちらを見ていた。

 こぢんまりとしたシンプルな部屋、ところせましと並べた海の写真、黒目黒髪の日本人だった前世の私とはまったく違う今の私。

 この世界は中世ごろのヨーロッパに似た世界観を持っているが、おやトイレもあるし町並みも水もれいで清潔だ。文化も日本のものが入り混じっており、あいさつや謝罪で頭を下げる事もある。常識や世界の在り方はまったくと言っていいほどに、違う世界だった。

 クローゼットを開け、中に並ぶドレスの中から装飾が少なめの物を探し出す。前世とは違う、重く動きにくい服にももう慣れた。たくを済ませ、部屋のとびらを押してろうへと足をみ出し、部屋に置いてあるよりも高価な調度品が並ぶ廊下を進む。地位の高さを主張してくるような家で、私は今住んでいる国の王子のこんやくしやとして生きている。こうしやくという地位を持つフロートス家に生まれた私は前世よりもごうせいな暮らしをし、重い責任を背負い、自分が進む道のせんたくを失った。

 そして私は、前世の時からこの世界を知っている。

 何もかもが違うこの世界にめたのは、前世を思い出したのが物心ついてからで、ある程度の常識がすでに身についていたという理由もあるが……何よりもこの世界が前世で遊んでいた乙女おとめゲームの世界だったという事が大きい。

 私の立場は主人公と敵対する悪役れいじようと呼ばれるキャラクターだったけれど、記憶を取りもどした時にはすでに主人公である義妹いもうとや、敵意を向けるはずの相手であるとも仲が良かった。ゲームでの私は最終的に家を追い出され、その先であまり良いあつかいを受けていない事がにおわされていただけだ。何か選択を間違って原作ストーリーのようになるとも限らない。ゲームの事を思い出してからは、追放のわずかな可能性すら消そうと気をつかい、様々な努力を重ねてきた。

 その結果、血のつながりは無くとも家族仲は良く、特に何の問題もない。

 実の父とその再婚相手の母、母の連れ子の義妹であるアンジュ。

 そして婚約者のラティル殿でんとも仲は良好。いて言うならおたがいにれんあい感情が無く、友達としての感情の方が強いのは問題かもしれないが……ふうであっても友人のままで良いだろう、と意見がいつしているので、無理に意識しようとせずに交流している。

 暮らしもゆうふくで困り事は少なく、家族とも婚約者とも良い関係を築き、やさしい国民達が住むこの国での生活を私は気に入っていた。

 ただ一つの願望がかなわない事を残念に思いながら……。

 廊下の窓の外、遥か下の海に視線を移す。

「……泳ぎたい」

 毎日のようにつぶやく言葉は、もう一種の習慣のようなものだ。

 この世界は空にかぶたくさんの島々と、その下に広がる海で形成されている。前世で飛行機に乗った時よりもずっと高い位置にある島が、私達が生きる場所だ。海に面した地面など無く、海に飛び込むのは自殺こうでしかない。

 科学ではなくほうという不思議な力で発展してきたこの世界だが、その魔法をもつてしてもつうの人間が海に入る手段は無かった。海面に触れる事すら出来ずに生を終えていくのが当たり前の世界では、海は一部の人間以外には得体のしれないおそろしい場所でしかない。海に関する資料すらほとんど出回っておらず、島の下に見える海にきようを感じる人間の方が多かった。死への恐怖を覚える場所にあこがれる私の方がたんなのだ。

 それでも……常に視界に入る場所、けれど絶対に触れる事が出来ない場所に焦がれ続けるあの水の世界がある。酸素ボンベから聞こえるシューシューという音も、耳元で聞こえるあわはじける音も、色とりどりの魚達も、良く潜る場所で見かけたイルカの群れも、全部なつかしくてこいしい。この世界は好きだが、一度思い出してしまった憧れは何年っても消えてくれそうに無かった。

 普通の人間は絶対に潜る事の出来ない海だが、実はこの世界の重要資源の大半はその海の中にある。海の底から採ってきた魔力をふくむ魔法石と呼ばれる鉱石を主体に、かいそうや砂などを魔法で様々な物に加工して利用する事でこの世界は成り立っていた。

 この世界には、自分の家がある島ごと海に潜る事が可能なとくしゆ魔法を使える人がいる。

 彼らは母なる海のおんけいを受けているからか回復魔法の力もすさまじく、力を持っている人間は強制的にりよう職にかされ、定期的に海底へと潜り資源を採取して国へ納める事を義務付けられていた。

 魔法は魔力や努力だいではあるもののだれでもある程度使えるが、「へきかいの魔術師」と呼ばれる彼らが持つ海に潜る魔法はせんざい魔法と呼ばれるものの一種で、生まれつき使える人間が決まっている。残念ながら私にはその力は備わっていないので潜水の魔法は使えない。

 碧海、という言葉は私が前世で持っていたもので、今世で失ったものの一つだ。前世の私のみようと同じ意味を持つ言葉は、この世界では碧海の魔術師だけが名乗る事を許されている。今世の私が碧海を名乗れる日はこない、今世の家名があるので当然ではあるのだが。

「先生、今日からまた来て下さるし、また海の中のお話を聞かせていただけるかしら」

 私の家庭教師であるフォード・ルシェールという少し年上の男性も碧海の魔術師の一人だ。少し前まで海底へ行っていたのだが、数日前に家がじようして来たらしく、今日からまた私の所へ勉強を教えに来てくれる事になっている。

 彼に聞く海の中の様子が、今私が知る事の出来る海の世界のすべてだ。この世界の海にもイルカやうみがめなど私の知る生き物達がいて、前世と同じめいしようで呼ばれている事。彼らの中にも魔法を使える子がいる事。前世の海とは違って深い海の底まで太陽や月の光が届く事。そういう知識はすべてフォード先生に教わった……いや、私がりに強請って教えてもらったのだが。

 今回はどんな話が聞けるだろうか。楽しみだなと笑ったしゆんかん辿たどり着いた居間の扉の向こう側から再び悲鳴と同時に何かが割れる音が聞こえてきて、みは自然にしようへと変わった。

「……がいが拡大する前に行きますか」

 扉の向こうのさわがしい声にやれやれと思いながら、ゆっくりと扉を開いた。

「おはよう」

「あ、姉様。おはよう」

「シレーナおはよう。良かった、やっと来てくれたわ!」

 散らばるガラスのへんと、扉のそばまで転がってきていた重いなべふたを見てかわいた笑いがこぼれる。今日もいつもと変わらず、騒がしい私の日常が始まるようだ。

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