正体不明

葛瀬 秋奈

正体不明

 気のせいではない。そう確信した。

 私の後を誰かがつけてきている。しかも人間ではない。『ぴと、ぴと』というおよそ動物とは思えない形容し難い足音はどんな靴でも再現できまい。では、なんだというのか。あまり想像したくはない。だからといって振り返るのも怖い。

 そうしているうちに自宅が近づいてきた。これを連れたままで家に入ってもいいものだろうか。駄目な気がする。

 仕方ない。

 私は意を決して振り向くことにした。心の中でカウントダウン。3、2、1。ぱっと後ろを振り返ると、そこには何もいなかった。

 はて、どういうことだ。私はしばし首を傾げ、そして閃いた。


「べとべとさん、先へお越し」


 そう言って道の端へ動く。するとどうだ。足音は私の横を通り、そのまま先へ行ってしまった。

 やはりそうだ。あの足音の主はこの先にいるのだ。しかし、私にはそれが何なのかわからなかった。

 この先の曲がり角に何かがいることはわかるのだが、それの姿形まで把握することができない。まるで霞がかかったようにぼんやりとしているのだ。

 しばらく立ち止まって考えていると、再び足音が聞こえてきた。今度は少しだけ近かったような気がする。それに混じって微かに声のようなものが聞こえるが、聞き取ることはできない。

 ただ、これだけはわかる。これはさっきと同じやつだと。その証拠に、私が歩き出すとその足音もついてきた。

 しかしコイツは、本当に「べとべとさん」なのだろうか。私の記憶が確かなら、「べとべとさんが喋った」という話は聞いたことがない。ならばこの声は何なのだ。そもそも先へ行かせたはずなのに何故また後方から音が聞こえてくるのだ。

 そんなことを考えている間に家に着いてしまった。結局、正体不明のままか……と思いながら玄関を開ける。


――おかえりなさい。


 耳元で囁かれた言葉に驚いて飛び上がる。慌てて周囲を確認するが誰もいない。空耳だったのだろうか。


 私は恐る恐る中へと入る。そしてゆっくりとドアを閉めた。

 これでもう大丈夫だろうと思ったその時、背後から『ぺたっ』という音が響いた。

 ひぃっと息を飲む。だがすぐに冷静になることができた。今の音は明らかに家の中からだ。つまり誰かが家の中にいるということになる。


「誰?」


 なるべく大きな声で呼びかけてみる。しかし返事はない。もう一度呼んでみたが同じことだった。仕方なく靴を脱ぎ、忍び足でリビングへと向かう。すると、そこには見覚えのない女がいた。

 他人の家に勝手に上がり込む妖怪といえば「ぬらりひょん」が有名だが、女のぬらりひょんなど存在するのだろうか。わからないが、幽霊よりは妖怪のほうがまだマシな気がするのでそうであってほしい。


「どちら様ですか? というかどうやって入ったんですか?」


 一応聞いてみるが答えてくれるはずもない。彼女は相変わらず黙っているだけだ。とりあえず警察に電話しようと思いポケットに手を入れたところで気づいた。携帯電話がない。どこかに置いてきてしまったようだ。

 どうしてこんなことになったんだろうと考えてみたものの、原因はわかり切っていた。後ろをつけてくるアレの正体を突き止めようと振り向いたとき、落として来てしまったに違いない。

 携帯がなければ警察にも連絡できないじゃないか。思わずため息が出る。せめてもの救いは相手が何もしてこないことか。今のところはおとなしくしてくれているらしい。

 このまま放置していても問題はないだろうと判断し、私は彼女のことを気にせずテレビをつけることにした。画面の向こうではコメンテーターたちが最近の若者について論じていた。


 しばらくして彼女が動き出したことに気づく。トイレにでも行くのかと思っていたら、なぜか台所へ向かったのだ。まさか食料を狙っているんじゃなかろうなと思って見ていると、冷蔵庫を開けて中に入っていたものを物色し始めたではないか。

 どうしよう。止めるべきか否か。悩んだ結果、止めることに決定する。理由は特にない。強いて言うなら私自身のお腹が減っていたため、食べ物を奪われることを嫌ったのだ。

 私はすぐさま行動に移った。まずは後ろから彼女を捕まえるべく手を伸ばしたのだが、なんと避けられてしまった。まるで私の行動を予測していたかのような反応速度である。

 そのまま続けて二回ほどチャレンジしたが全部失敗に終わった。こうなったら最後の手段しかない。私は彼女を正面から押さえつけるべく走り出した。

 結果は惨敗だった。いくら勢いよく向かっていったとはいえ相手は妖怪。人間ごときに勝てる道理がなかったのだ。


 私は床に倒れ込み、その上には彼女が乗っかってきていた。重い。そして苦しい。なんとか逃れようとするが、彼女に腕を押さえつけられていて身動きが取れなかった。

 そんな私を見て何を思ったのか、彼女は突然口を開いた。


「あなたが……」


 その声は透き通っていてとても綺麗だった。


「私がどうかしましたか?」


 私は苦し紛れに聞き返す。


「……」


 また無言になってしまった。一体何だというのだ。


「あー、えっと、どいてもらっていいですかね」


 そう頼むと、意外にも素直にどいてくれた。私は急いで起き上がって距離を取る。


「ありがとうございます。それで、私に何か用があったりするんでしょうか?」

「…………あの、私の声聞こえてますよね?」

「はい。聞こえていますよ。それで何か御用ですか?」

「いえ、別にそういうわけじゃないんですけど……。じゃあいいや。もう行きますね」

「ああちょっと待ってください!なんかあるから話しかけてきたんですよね!?」


 慌てて呼び止めたものの、そこから会話が続くことはなかった。彼女は何も言わぬまま、まるで初めからその場にいなかったかのように忽然と消えてしまったのだ。

 残された私はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、自らの腹の虫で現実に引き戻される。そういえば腹が減っていたのだ。つけっぱなしになっていたテレビを消し、とりあえずインスタントラーメンでも作るかと台所へ。野菜を適当な大きさに切りながら、ふと思いついたことを口に出す。


「もしかして私に『ただいま』って言ってほしかったのかな?」

 

 その言葉に対する返事はなく、誰もいない部屋に野菜を切る音だけが響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正体不明 葛瀬 秋奈 @4696cat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ