終幕

 エリオットからの告発を受け、ファシアの脳裏にはセピア掛かった景色が映し出される。

 古い記憶だった。質素な使用人服を着せられ、雇い主から呼びつけられれば、何をおいても駆けつけなければいけない。気位の高いファシアにとっては地獄の様な日々だった。

 

 フランスのとある貴族の館で開かれた社交会の記憶。当然ファシアは参加者ではない。互いに競うように上質なドレス生地を広げる婦人たちを横目に、主人に言いつけられた通り貴族の使役に身を費やす。

 誰もファシアを見ることはしない。当然だ、単なる労働力に過ぎない少女に構うものなどいない。

 たった一人を除いては、そうだった。


「あなた、綺麗な顔をしてるわね」


 そう言って小間使いをしていたファシアに声を掛けたのは、一人の招待客の貴族の女だった。

 ファシアの記憶の中の女性の顔にはモザイクが掛かっている。もう十年以上も前に一度見ただけの女の顔である、正確に思い描くというのは土台無理な話だった。ただし、とりたてて挙げるべき特徴もない平凡な顔立ちをしていたことだけは確かだ。


 女に関する記憶で、何よりも強くファシアの脳裏に焼き付いているものがある。それは、女が首から下げた銀細工のネックレスだった。


「こちらへいらっしゃい。少し話をしましょうよ」


 優しくファシアを呼び寄せた女の左手には、母親のドレスよりも輝く金の髪がくしゃっと跳ねた小さな子どもの、これまた小さな右手が。ぷくっと自然に膨らんだ頰は、紅を塗ったかのように真っ赤に染まっていた。服飾を見なければ男児であることも分からないであろう、愛くるしい顔立ちをしている。

 ファシアは呼ばれるがままに女の元へ行く。彼女の緑の眼を奪い続けるのは、銀色の鱗を光らせて、輝く赤色を放つ宝石を咥えた蛇だけだ。


「ふふ、このネックレスが気になるの? これはね、夫がくれた物なのよ。アレキサンドライトと言って……」


 女の声が耳をすり抜けていく。


 ──その首飾りはあなたには勿体無いわ。あなたのような凡庸な女には似合わない。


 十代のファシアはにんまりと笑う。 

 

 そのスネークは、わたくしの物よ。

 

 彼女はこの時、ひとつの決心をした。



 女はファシアを雇っていた貴族と親しい仲らしく、その日は館に泊まっていくことになっていた。

 チャンスは今日しかない。

 ファシアは屋敷中が寝静まるのを見計らって、客用の寝室にこっそりと忍び込む。  母と子、それぞれの寝息が静かな寝室を充している。

 視界を照らすのは微かなランプの灯りだった。

 目当ては女の装飾入れだ。まさか寝ている時にまでアクセサリーを付けているはずがない。装飾入れの中を探し出し、この不相応な女からシルバースネークを助けださなければ──。


「だれっ⁉︎」 


 突然女がベッドから身を起こした。

 ファシアは咄嗟に、置いてあった小さなガラス製の照明を掴むと、女の頭に振り下ろした。

 何度も、何度も。

 つんざくような悲鳴が鼓膜を刺激する。

 なんて下品な悲鳴なのかしら、と思わず顔を顰めた。どう考えても、こんな女がこの蛇の所有者に相応しいとは考えられない。


 女はベッド脇に倒れたまま、頭から血を流し、動かなくなった。

 天はファシアに味方した。

 女の悲鳴を聞き咎めた何者かが部屋に飛びこんでくるような事態には発展しなかったのである。部屋が離れにあったため、家人の耳には届かなかったらしい。また、豪勢な社交会の後である、屋敷中が寝静まっていたことも幸いした。

 唯一の照明であるガラス製の小さな照明が割れ、部屋は暗闇に包まれる。


「ママ、ママ」


 背後ではあの天使のような子どもが泣きじゃくり、死体に追い縋っているようだ。

 構わず、ファシアは女の装飾入れを手探りで漁った。カーテンを細く開け、差し込んだ月明かりを頼りに愛しい蛇を探す。

 装飾入れの奥からようやく見つけ出した銀色に輝く蛇に、ファシアは愛を込めて口づけをした

 

愛してるラヴ……」


 血溜まりに沈む女と泣き喚く幼児を残し、ファシアは手探りで部屋を後にした。

 夜のとばりが明けぬうちに屋敷から飛び出し、また別の名を騙って使用人として働き始めた。

 が、新たな主人とは反りが合わず、すぐに屋敷を追い出された。

 そうして逃げるようにイギリスへと渡り、アルヴァと出逢うまでの数年間、蛹のように惨めな時を過ごした。その期間、慰めになったのはこの蛇の首飾りだったのだ。


 これがファシアの脳裏に宿る、十数年余り前の出来事である。


 まさかあの子供がエリオットであるとは。


 国も違えば、長い年月が経過している。

 小さな子供は美しい警察官の青年に、そしてファシアは伯爵夫人と立場を変え、再び舞台に上がった。


 つながるはずのなかった運命の輪。


 巡り合わせてくれたのは、紛れもなくこのネックレスだ。


「エリオット様、運命ですわ! わたくし達、また会えるだなんて」


 興奮に頬を赤らめたファシアが青年に一歩近づく。

 エリオットはそれまでスーツの内側に隠していた右手を差し出した。 

 まるで握手を求めるように。


 運命の再会に有頂天に達していたファシアは、最期まで突きつけられたものが銃口だということに気が付かなかった。


 ◇   ◇   ◇


「ああ、なんてことだ、エリオット……」


 チェスターのため息にも似た一言でエリオットは我に帰った。

 銃声を聞いて飛びこんできたのだろう、チェスターは額に汗をかき、紅潮した顔で現れたが、エリオットの足元に転がったものを見て、今度は顔面蒼白になった。

 エリオットは感情もなく、血溜まりに倒れる女を見下ろす。

 自らの右手には未だ硝煙を放つ黒い拳銃が握られたままだ。


 母の仇。これまで幾年にも渡ってその行方を追い続けきた。

 様々な縁からイギリスの名家、ドラモンド家に養子として迎え入れられたのち、警察官を志したのもこの女を自らの手で捉えるために他ならない。

 当時の自分は幼く、女の顔は覚えていなかった。更に女は名前も身分も変えていたため、ネックレスとあの言葉が無ければそうとは気が付かなかっただろう。


 後悔の念を抱え、少しでも反省の色を見せたのなら、命まで取るつもりはなかった。


 だが……悪女は悪女のまま。


 母の事件はこの女にとっては都合がいいことに、物取り目的の外部犯の仕業とみなされ、結局事件は迷宮入りとなっていた。

 自分が罰しなければ、ファシア・ロンズデールは死ぬまでその報いを受けることはなかっただろう。


 妙な違和感は、この女を一眼見た時から感じていたものだ。

 きっと無念のうちに亡くなった母が道標を示してくれていたのだろう、とエリオットは考えていた。


「警部、私は罪を犯しました。逃れるつもりはありません」


 エリオットは銃を床に置くと、チェスターに向かって両手を差し出した。

 市民を守るはずの警察官が、善良とは言えないものの一般人をその手で殺めたのだ。罪を償う覚悟はできていた。

 だが予想に反してチェスターは無言のままエリオットの横をすり抜けると、窓際に立ちカーテンを開けた。

 更に窓を開けると、生ぬるい夜風が部屋に滑り込んでくる。

 やがて、チェスターは芝居がかった調子で額を抑えた。


「なんということだ。元ロンズデール伯爵夫人は恨みを持つ何者かに殺されたのだろう。脅迫状が来ていたというのに、我々の目と鼻の先で凶行は行われたのだ。おそらく犯人は、から逃走したに違いない。我々の力が及ばず、彼女には申し訳のないことだ」


「警部……?」チェスターの意図が見えず、エリオットは聞き返した。

 チェスターは目を細め、エリオットを見る。いつもの彼とは違う、穏やかな表情だ。


「必ずや我々の手で犯人を捕らえよう、エリオット。だが敵の多そうなご婦人だ。情けないことだが、もしや迷宮入りなんてこともあるかもしれんなあ」


「……」


 チェスターはエリオットの生い立ちを知っている。おそらく、ファシアの正体についても想像がついたのだろう。

 チェスターの発言の意味を理解し、エリオットは呆然と立ち尽くした。


「いったろう、エリオット。お前はレスターシャー署のホープだと。この毒婦のせいでその輝きが失われてしまうことは、我が署、いやこの国にとっての悲劇だ」


「……申し訳ありません、警部。ありがとうございます」


 エリオットは震える拳を握りしめ、チェスターに向かって小さく頭を下げた。

 その頬を、一筋の涙が伝った。

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ウロボロスの首飾り 十坂真黑 @marakon

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