暗転
それは天井に向けて発せられたようだった。
まもなく、この場を混乱が支配する。
観衆らは悲鳴や怒号を上げ、一斉に外へと続く出口に駆け出していく。
ファシアはこの時ようやく数日前に届いた脅迫文の存在を思い出した。
ランスロットに雇われた何者かが脅迫文を出しさらにパーティへ潜り込んだものの、彼が捕まり、自暴自棄になったに違いない。
「賊がどこかに潜んでいるのかもしれん!」
ファシアの脳に響いたのは、チェスターの声だった。喉元が引き裂かれたようたようにひどく嗄れ、焦燥が滲んでいた。
「元ロンズデール伯爵夫人をお守りしろ!」
金の髪を揺らして素早く動いたのは、エリオットだった。
「夫人、こちらへ」
彼はファシアの手を取ると、躊躇せずにすぐ近くにあった扉を開け、廊下へ逃げ込んだ。
ファシアはこの状況に、ただただ胸を踊らせるばかりだ。
──まるで恋愛小説のワンシーンのようだわ!
ばたんとと扉が閉まる音も、今の彼女には遠くで鳴り響く祝福の鐘の音のように聞こえた。
「……ひとまず、ここまで来れば安全でしょう」
エリオットは囁くように息を吐いた。
廊下の突き当たりにあった扉を開き、二人はその中に飛び込んだのだ。
そこは偶然にも、ファシアの寝室だった。
パーティーが始まる前、つい時間を忘れて姿見の前に立っていた、あの部屋だ。
真っ白な洋服ダンスに豪華絢爛なベッド。ファシアの趣味が大きく反映された、貴族の寝室。
ファシアは慣れた手つきで照明に光を灯し、胸の前で手を合わせた。
「ありがとうございました、エリオット様。わたくし、怖くて……一歩も足が動きませんでしたの」
「もう大丈夫です、ファシア様」
静寂に支配された室内で、エリオットは柔らかい笑みを浮かべる。
「大変な目に遭われましたね。ですが、屋敷内には私やバイゴッド警部の他に十人余りの警察官が配備されています。貴女の身に危険が及ぶことは、もうありません」
「エリオット様……」
ファシアは、自然を装って彼の胸に顔を埋め、恐怖で怯える可憐な女を演じる。
結婚適齢期を当に過ぎていたというのに、女性に対しあまり興味を示さなかったアルヴァにも通じた手だ。彼女には豊富な経験により、この若い警察官を自らのものに出来る自信があった。
「ファシア様……一つだけお願いしたいことがあります」
エリオットはファシアを拒みも受け入れもせず、そう言った。ファシアは顔を上げる。
「私に、愛を囁いてはいただけませんか?」
再び彼女のもとに跪き、エリオットは上目遣いにそう告げた。さらさらと流れる前髪越しに、ファシアはエリオットの青い瞳を見る。その表情に、何かしらの想いを感じ取った彼女は、演技をすることも忘れ満面の笑みを溢した。
「もちろんですわ」
ファシアは跪いたエリオットの耳元に唇を寄せた。
「
エリオットの唇から、声にならない息が零れる。視線を足元に向けているため、ファシアには今彼がどんな感情に顔を染めているのかは分からない。しかし、間違いなくエリオットは法悦に心を浸しているのだろう、とファシアは信じて疑わなかった。
だから、青年が顔を上げ覚悟を決めたような力強い表情を見せた時、ファシアは驚いた。
エリオットは跪いたまま、言葉を口にした。
「貴女をお見かけした時、私は幼き頃に別れた母を思い出しました」
突然の告白に面を食らったファシアに構わず、彼は続ける。
「ファシア様と私の母は似ても似つきません。髪の色も異なれば、母は貴女ほど美しくもなかった。なぜ貴女の姿と私の母が重なるのか、分かりませんでした。しかし」
エリオットは静かに立ち上がる。無駄な装飾のない礼服が発する衣擦れの音が、やけに耳に障った。
「その疑問は解けました。母の記憶を呼び起こさせたのは、貴女のその銀のネックレスです」
「ネックレス──?」
無意識に、ファシアは自分の胸元に視線をやる。相も変わらず、銀の蛇が赤い宝石を咥えている。
エリオットもまた、目を細めファシアの首飾りを愛おしそうに眺めていた。慈しみすら感じられる表情だった。
やがて、彼は長いため息を吐く。
「私の父は私が生まれてすぐに亡くなりました。母は生前、父から貰った形見の銀細工をいつも首から下げ、とても大事にしていました。銀の蛇が貴重な宝石を咥えた姿を現したネックレスです」
ファシアは言葉を紡ぐことが出来ない。間髪入れず、エリオットが続けたからだ。
「そのネックレスは、私の母の物でした。母を殺し、それを奪った貴女が忘れたとは言わせません」
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