14.百鹿(3)




 一歩、二歩。足を踏み出す度に、木の板が乾いたきしみを上げる。木が悲鳴を上げているように感じて、歩みを進めることに躊躇ためらいが出た。


 けれど、父が下りている。ついていかなくてはいけない。


 父に失望されたくなくて、僕はまた歩き始める。より慎重に、注意深く。階段が傷まないか、生き物がいないか。確認しながら階段を下りる。


 いつくしみやあわれみを感じる心が芽生えてまだ間もない。


 だけど、胸に根付いたそれは、もはや大樹になっていた。


 そしてまだ成長は続いている。僕にはそれがはっきりと感じられた。


 ふと、違和感に気づく。


 体の周囲を微風そよかぜが巡っていた。階段を下り始めたときから、ずっとまとわりついているように思う。父を見たが、風を受けているようには見えなかった。


 僕は気になり、父の背に向かって言った。


「あの、父さん」


「んー?」


「ここは、どこかと繋がっているんですか?」


「繋がっていると言うほどじゃないけど、通風孔はあるね。どうして?」


「風が、僕を撫でるんです。ずっと側にいます」


 父が立ち止まり、僕に顔を向ける。


「驚いたな」父が笑って言う。


「もう感じるのか。それは風海月カゼクラゲだよ」


「風海月って何ですか?」


「家で飼っているの生き物だよ」


「彼の世の生き物」僕は背筋が寒くなる。


「そ、それはどんなものですか?」


「百聞は一見にかず。明かりを消すよ。よく目を凝らしてごらん」


 父がランプの炎を吹き消す。辺りが闇に覆われる。


「何も見えません」僕は身震いする。


「父さん、怖いです」


「落ち着いて。感じているものを見るだけでいいんだよ。そこにいるんだから、見えない訳がない。そう思ってよく見るんだ」


 言われた通りに念じながら、数回静かに呼吸を繰り返す。すると周囲が青みがかった明かりに照らされた。それは宙に浮いた何匹もの小さな海月が放っている光だった。触手がほとんど見えず、傘の中央に四つ葉のクローバーのような模様が入っていた。


「見えるかい?」


 そうたずねる父の姿が見えた。僕は幻想的な光景に圧倒されて言葉を失っていた。


「百鹿、見える?」


 再び訊かれ、僕は我に返る。


「はい見えます」


 返事をして頷くと、父が軽く頷き返し、静かに背を向けた。


「あ、あの、父さん」僕は慌てて呼び止める。


「んー?」父が振り返って言う。「何だい?」


「父さんは彼の世に行ったことがあるんですか?」


「ああ、あるよ」父が明るく笑う。


「とても綺麗なところだったよ。そしてとても怖ろしいところでもあった。此の世に伝わっている伝説上の生き物はすべていたよ。それでもごく一部に過ぎないね。父さんは風海月をお土産に帰ってきたんだよ」


「すごい」僕は胸の高鳴りを感じた。


「そこは、どうやって行くんですか?」


「彼此繋穴を通るのさ」


「ヒコンケイケツ?」


「ああ、彼の世と此の世を繋ぐ穴だよ。たまにどこかで繋がるんだ。そこからあちらとこちらの行き来ができる。だけど彼此繋穴を通ると、体が溶けてただれて、おまけに腐って、仕舞いには影になっちゃうんだ。真っ暗なのが真っ白に変わった瞬間、痛いの何のって、それはもう言い表せないくらいに酷いんだ。それにね、喉もやたらと渇くし、焼けるようにうずくんだよ。水をくれって呻いても誰もいないし、どこにも水なんてないんだ。ずーっと苦しみが続く。永遠にこのままなんじゃないかと思って、頭がおかしくなりそうだった。いや、ことによると既に狂っているのかもしれない。だからね、百鹿は彼此繋穴を見つけても絶対に渡っちゃいけないよ。せめて此の世に飽きるまではね?」


 父は淡白な笑い声を上げながら階段を下りて行く。


 僕は話を聞いてゾッとした。


 けれど、それは大きく膨らんだ好奇心にあっという間に押し潰された。話を聞いている間もずっと、僕は風海月に触れることができるのか試したくて仕様がなかった。


 僕はすぐに気持ちを抑えられなくなった。側を漂っている風海月に視線を移し、その薄いぼかしガラスのような傘を指の腹で軽く押してみた。


 指がむにゅんと傘に沈む。ひんやりとして、やわらかい。


 ある程度押し込むと、風海月は鱗粉のような光を散らして弾むように流れた。


 すごい。触れた。


 僕は大発見した気分だった。


 歩みを進めながら父の背に声を掛ける。


「父さん、父さん、風海月に触れました!」


「そうか」父が背を向けたまま少し笑って言う。「どうだった?」


 僕は興奮気味に、見たこと感じたことを伝えた。父は相槌あいづちを打ちながら、たまに楽しげな笑い声を上げた。それは僕にとって嬉しい反応だった。喜んでいると、一匹の風海月が寄ってきた。顔の横を付かず離れず漂う。指で押しても戻ってくる。


「父さん、あの、一匹ついてきます」


「ん?」父が振り向き、僕を見上げる。


「ああ、なつかれたのか」


「どうしたらいいですか?」


「百鹿のしたいようにすれば良いよ」


 僕のしたいように?


 風海月を見る。ふわふわ漂っている。その姿が可愛らしく思えて、つい笑ってしまった。


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