15.百鹿(4)




「気に入ったようだね。名前をつけてやったらどうだい?」


「名前?」


 僕は立ち止まり、風海月を見つめて固まった。


 風海月は狭い範囲で浮き上がったり沈んだりしている。


 どうしよう?


 僕は、何かに名前をつけたことが一度もなかった。だけど、適当につけるのは良くないというのは分かっていた。急に責任を負った気がして困惑した。頭を悩ませていると、「百鹿ももか」と父が呼んだ。僕が顔を向けると、父は軽く肩を竦めて言った。


「取り敢えず、降りてしまおう。大丈夫、そいつは逃げないよ。風海月はなつくと死ぬまでパートナーの側を離れないからね」


 死ぬまで?


 僕は風海月にちらりと目をってからいた。


「あの、もし僕が要らないって言ったら、どうするつもりだったんですか?」


「ん? 殺したよ?」父が平然と言う。


「そうするしかないからね」


 信じられない返答に唖然とした。だけど僕は訊き返さなかった。父はそうするしかないと言った。だとしたら、そうするしかないのだということを僕は知っていた。


 父が言うことはいつも正しい。決して誤ることはない。僕はそれが揺るぎないものであるという確固たる自信を持っていた。常に従順であれ。畏敬いけいの念を抱け。そんな思いが心に染み込んでいた。僕は父を崇拝すうはいしていた。


 だから僕は、お腹の奥に鉛を入れられたような重みを感じても批判しなかった。自分が選択を誤らなかったことを安堵して、ただ静かに階段を下りた。


 それからいくらもしないうちに、石造りの狭い踊り場に出た。


 階段が石段に変わり、下りる向きが逆になった。


 雫が落ちるような涼やかな水の音が聞こえた。


 それは下に向かうほど近づいて、空気も徐々に冷えていった。


 間もなく片側の壁がなくなり、石段の終わりと石の床が見えた。


 結構、深かったな。と思った。階段を見上げると、踊り場が闇で見えなくなっていた。


 僕は急に、もう戻れないのでは? という不安に襲われて一段上った。すると、ぽう、と風海月の光が灯って踊り場を照らし出した。


「大丈夫」背後から父の小さな声がした。


「戻れるよ。早くおいで」


 振り返ると、父が指を曲げるように手招きした。僕は驚いて訊いた。


「どうして僕の考えてることが分かったんですか?」


「父さんは人の感情が色になって見えるんだ。そういう訓練をしたからね」


「すごい」僕は階段を下りながら訊いた。


「それは僕にもできるんですか?」


「訓練次第で誰でもできるようになることだよ。それより、ほら」


 父の手に促されて地下室に目を向けた僕は、目前に広がる光景に感嘆かんたんの息を漏らした。


 まるで海沿いの洞窟にでも入ったようだった。


 なめらかな石壁に囲まれ、天井からは鍾乳石しょうにゅうせきが垂れている。床の半分ほどが池で、そのんだ水面が、風海月たちの青い光を揺らめきにせて返していた。


 すっ、と白くて細長いものが池の中を通った。すぐに死角に入ってしまったのでよく見えなかったが、大きな尾鰭おびれひるがえっていた。


 魚だ! と僕は心で叫んだ。僕は初めて目にする生き物に胸を弾ませた。


 そんな僕の興奮を察してか、父がすかさず顔の前で人差し指を立てて言った。


「驚かせないように、小声でね」


「は、はい」僕は頷き、池を指差す。


「今、あそこに大きな白い魚が見えました」


「おしい。あれは魚ではないよ」


「え、じゃあ、何です? イルカですか?」


「いや、それも惜しいね。どっちも半分は正解してる」


「半分? まさか、人魚ですか?」


「そう、そのまさか。あれは家で飼ってる人魚だよ。名前は魅音ミオン。彼此だ」


「ヒコン?」


 僕は首を捻る。父が、「うん」と頷いて言う。


「彼の世のものが、此の世で体を得たものだよ。風海月と違って実体がある。彼の世で体を失った父さんとは逆だね」


「じゃあ、父さんはコンヒですか?」


「此彼?」父が小さく失笑する。


「安直だね。そんな風に呼ばれたことはないな。父さんはカエラズと呼ばれてる。不可能の不に、返還の還を合わせてそう読む。彼の世に長く留まり過ぎて、魂の奔流ほんりゅうに拒まれた人間の成れの果てだよ。でも、彼の世の瘴気しょうきが抜ければまた奔流に還れるから、そんなに悪いものでもないよ。誰かにはらわれでもしない限りは、自分で還る時期を決められるんだからね」


「それって」僕は父の決して変わらない顔色をうかがうように訊く。


「死なないってことですか?」


「ある意味ではそうだね」父が僕の頭を撫でて言う。


「父さんはもう体がない。それは死んでるってことだ。死んでるんだから、もうどうしたって死ぬことはない。後はいつ還るかを決めるだけなんだよ。百鹿とも、いつかはお別れしないとね」


 お別れ。


 それは、冬枯ふゆがれの中に一人佇むような、とても寂しい言葉だと感じた。離れたくないという強い思いが沸き起こり、泣きそうになった僕は父の足に抱きついた。


「父さん、還らないでください」


 なぐさめを期待した僕に、父は乾いた笑い声を上げて答えた。


「そういう訳にもいかないよ。ずっと此の世にいたら悲しいばっかりじゃないか。だけど、まぁ、百鹿がお爺ちゃんになるくらいまでは還らないだろうから、そこは安心すると良いよ。その安心は、いずれ辟易へきえきに変わるだろうけどね?」


 父が袖を軽くめくり、腕時計を見て言う。


「おっと、いけない。そろそろ魅音を紹介しよう。詰まってきちゃった」


 父は僕をさらりと引き剥がした。そして早足で歩き出し、池の縁で立ち止まると、水面に向かって小さく手招きした。


 すると、ちゃぽん、と小さな音をたてて、白髪でおおわれた顔が水面に現れた。

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