13.百鹿(2)




 僅かに影が差し、整髪料の匂いがする。顔を上げると、父が隣に立っていた。


「知識はあるけど、記憶がないんだろう? 大丈夫だよ。父さんもそうだった」


「父さんも、こんなことがあったんですか?」


「もちろん」父が頷く。


「父さんが最初に見たのは畳だった。畳の上で横になっているときに、急に自分の存在に気づいたんだ。あ、自分がいる、ってね。それ以前の記憶は何もない。それまでは此の世に存在していなかったんじゃないかって、疑ってしまうくらいにね」


「皆、こんな風に途中から始まるんですか?」


「んー、難しい質問だなぁ」父は腕組みして首を傾げる。


「それは何とも言えないね。そもそも、最初がどこかということだよ」


「最初は産まれたときじゃないんですか?」


「そう思う? 確かに、産まれたときから記憶があるって言う人はいるよ。だけど、母親のお腹の中にいたときから記憶があるって言う人もいるんだよね。もっと酷いと、前世の記憶を引きずっているなんて言う人もいるよ。ずーっと覚えている人がいたとしても、その人にだって芽生えの瞬間はある訳だ。どんな場合でも、やっぱり気づいたときには、あれ? ってなるだろうし、途中だと思ってしまうんじゃないかな?」


「確かに」僕も腕組みして首を傾げる。


「そうですね。えっと、じゃあ、記憶が始まる前の自分は、本当に自分だったんでしょうか?」


「ああ、父さんも同じこと考えたなぁ」


 父が笑って沁々しみじみと言う。


「それを知っても今の自分には関係ないって気づくまで時間が掛かったんだよね。それは考えるだけ無駄だよ。何の意味もないことさ」


「でも、知りたいです。父さんから見た僕は、僕のままですか?」


「うん、それは大丈夫。百鹿ももかは産まれてからずっと百鹿のままだよ。中身は同じ。別人みたいに感受性が強くなっているけど、芽生えってそういうものだから」


「じゃあ、じゃあ、父さんも、芽生えのときは苦しかったですか?」


「それは」父がこめかみに指を当てて言う。


「んー? どうだったかな? 苦しみについては思い出せないけど、たぶん感じてたんだろうね。今の百鹿と同じで食事がとれなかったし。料理された生き物を、それはもう不憫ふびんに思ってね」


「不憫」


 僕は俯き、皿に目を移す。しっくりくる言葉だった。


「そういう血筋なんだよ」父が腕時計を見る。


「おや、丁度良いね。行こうか」


 そう言い終えるなり、父は僕の側を離れてドアの方に向かう。


 僕はナプキンを外してテーブルに置き、急いで椅子から降りた。


「どこに行くんですか?」


 僕は父の背に訊いた。


「それは着いてのお楽しみ」


 父は歩きながらそう答えて、ドアの前に着くと振り返った。そしてドアノブを回して引き、紳士的な仕草で僕にダイニングルームから出るよう促した。


 吹き抜けの天井で大きなシャンデリアが輝いている。床と階段には赤いカーペット。


 知っている光景なのに、新鮮な気持ちになった。立派な家に住んでいるのだという実感が湧いて、誇らしくなると同時に萎縮いしゅくした。


 僕がここに住んでいるのは、父に権利を与えられているからだ。


 僕には何の力もない。父がいなければ路頭に迷うだろう。


 もし父が僕を要らないと思えば――。


 ピアノの音が止み、背後でドアの閉まる音がした。


 はっとして振り返ると、父がもう隣に迫っていた。


「さ、行こう」


 父が悠々と歩き出したので、焦ったような気持ちで後についていく。


 形の良い後頭部、広い背中、やんわりと振られる手。その周囲にある、焦げ茶色の木製モールディングとケーシングに縁取られた、白い天井と壁が流れていく。


 やがて、妖精の群れが優しくノックしているような音が耳に入った。


 小雨が降りだしたのだと覚る。


 漠然ばくぜんとした不安と、足音さえ聞こえない静けさに寂しさを感じていた僕は、その控えめな雨音に救われた。心が和んでいなければ泣いていたかもしれなかった。


 父は壁際にある階段裏の通路に入ると、手近なドアの前で足を止め、ズボンのポケットから黒皮のキーケースを取り出した。そのボタンを外して鍵束を露出させると、片手で擦り合わせるようにして必要な鍵を選び出した。


 父がドアの鍵を開けて言う。


「開けてくれるかい?」


 僕は言われるままにドアノブを回して引く。


 すると、向こうから押されて一気に開いた。


 押したのは風だった。強い冷風が吹き込んできて、思わず目を閉じる。鳴らない口笛のような音が耳の側を通り過ぎていく。髪が後ろに勢いよく流されるのが分かった。


 風が止んだ。一瞬の溜め息のような吹き方だった。


 目を開けると、下に向かう木製の階段が見えた。暗くて先の方は見えない。


「父さん」僕は父の顔を見て訊いた。「ここは?」


「地下室の入口だよ」


 父は壁に備えられたランプに、オイルライターで火を灯しながら答えた。


 炎がガラスの向こうで揺らめくと、父はランプの取っ手を掴んで壁から外した。


「さ、おいで。足下に気をつけて」


 父がランプを手に階段を下りて行く。僕はそのほのかな明かりの後に続いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る