12.百鹿(1)




 暗闇の中にノイズが混ざり、ピアノソナタの悲しげな旋律が流れた。


 蓄音機ちくおんきを通したルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの月光。


 その膨らみのある音色が僕の代わりに産声を上げた。


 あれ? と思った。僕はここで初めて自分というものに気づいた。


 まるで舞台の場面切り替え。


 暗転している間に、それまでの僕は舞台袖ぶたいそでに引っ込んでしまったように思えた。


 五歳ということは分かっていた。年齢に見合わない多くの知識を備えていることも。


 ただそれを得るために何をしてきたかを覚えていない。


 以前の自分がどのような存在であったかも分からなかった。


 目の前に、白い皿に載ったステーキがあった。添え物は人参のグラッセと、ボイルされたブロッコリ。焼けた肉と、溶けた脂でソテーしたガーリックの香ばしい匂いが鼻腔を通る。視界の端では、銀のカトラリーが銃を携えた兵隊のように整列していた。


 少し戸惑いながら顔を上げる。純白のテーブルクロスが敷かれた長いダイニングテーブル。その端で、黒いスーツを着た父が、椅子に腰掛けて食事をしていた。闇で形作られたスマートな顔と手。ポマードでオールバックに整えられた黒髪のウィッグを被っている。


 父は事務仕事をこなすように淡々とステーキを闇の顔に運んでいた。


 テーブル中央にある銀の燭台が、シャンデリアの穏やかな光を受けて輝く。窓の従者であるかのように傍らに佇む赤いヴェルヴェットのカーテン。父の洗練された動きは、この部屋にある美しいものの一つだった。


 僕はそれを見ていたかった。用意された現実から目を背けたいという思いが胸に混沌と渦巻いていた。僕の視線に気づいたのか、父は手にしていたナイフとフォークを静かに皿に置き、胸に掛けているナプキンで口許を拭った。


「どうした、百鹿ももか?」


 父は耳当たりの良い声で言う。


「食べないのかい?」


 視線を皿に戻す。ステーキから薄い血のような肉汁が染み出ていた。


「父さん、これは何の肉ですか?」


だけど、どうかした?」


「この牛には家族がいたでしょうか?」


「さぁ、どうだろう? 少なくとも親はもういないだろうけど」


「あの」僕は少し考えてから言った。


「どうして、この牛はこんな風になったんでしょうか?」


「こんな風って?」


「ステーキです」


「シチューが良かった?」


「いえ、そうじゃなくて、えっと」


 どう言えば気持ちを上手く伝えられるだろう?


 考えたけど、まとまらなかった。


 湧き水のように滾々とうとうと感情があふれ出て、色んな思いが錯綜さくそうして邪魔をした。


 もどかしくて歯を食い縛る。知らないうちに握りこぶしも作っていた。


 不意に、視界がにじんだ。鼻の奥が熱くなり、喉と胸の間が窮屈になる。


 うつむくと雫が落ちて、テーブルクロスに小さな染みを作った。


「父さん、僕はどうしたんでしょう?」


 僕は胸を押さえ、父に訴えるように言う。


「病気かもしれません」


「病気?」父が驚いたように言う。「具合でも悪いのかい?」


「分かりません」僕は首を横に振る。「分からないんです。色んなことを知っているのに、何も覚えていないんです。食べ物を見ていると悲しくなりました。胸が苦しいです」


「なるほど」父が頷いて言う。「夕食は食べれそうかい?」


「食べれません」


 僕はナプキンで涙を拭いながら答える。


「口に入れたくもありません」


「そうか」父が息を吐くように言った。「どうやら、芽生えが訪れたようだね」


「芽生え?」僕は小首を捻る。「病気じゃないんですか?」


「違うよ」父が席を立ち、ナプキンを外してテーブルに放る。


「単なる成長の一環だから心配しなくて良い。今日が百鹿の始まりの日ということだよ」


「僕の始まり」


 僕は手を見る。スーツを着ている体も。どちらも記憶にない。というより、記憶自体がない。なのに、これが自分だと確信している。それ以外にも多くを知っている。


 見慣れている。聞き慣れている。


 ステーキもそう。味や食感、フォークで刺したときの弾力。ナイフを入れたときの手応え。それらを持つ手に伝わる冷たさ。質感。五感にまつわるすべての想像ができる。経験していなければできないことを、僕は自然に行えている。


 始まりというより、途中。僕は一体、何なのだろう?


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