11.三野瀬 学(4)




 振り返ると、案の定、女は三人に増えていた。


 動きは速いが、道幅が狭く邪魔をしあっている。


 俺は前を向く。更に速度を上げる気持ちで足を動かす。


 確か、分岐点に近づくほど道幅が広がったはずだ。


 そこまでどれだけ差を開けるかが勝負。


 また振り返る。かなり距離が開いている。


 何とかなるかもしれない。


 そう思って前を向いた瞬間、ゴッ、と硬くて低い音がした。額に衝撃が走る。首から下だけが前に進んで、仰向けに浮く。落下。俺は背面すべてを地面に強打した。


 激痛。声も出ない。きつく目を閉じて、歯を食い縛る。


 両手で額を押さえて目を薄く開く。太い木の枝が道に突き出していた。


 マジか――。


 手と額に、ぬるりとした感触があった。


 見ると、指が赤く濡れていた。どうやら血が出たようだ。


 俺は仰向けになった体を反転させる。そして肘で体を持ち上げ、膝立ちになる。


 鞘のストッパーを外し、ナイフを抜く。


 手の甲で額から流れる血を拭い立ち上がる。


 女たちはもうすぐそこまで迫っていた。


 それでも、俺は覚悟を決めかねていた。


 足が震える。目尻がしゃっくりしているみたいになる。


 こんなんで、どうやって立ち向かえばいいんだ。


 女たちが近づいてくる。俺は目を閉じ、大声を出して身を丸め、防御姿勢を取った。


 だが、一向に襲われる気配がない。目を開ける。


「え?」


 俺は唖然として呟く。


「何で?」


 女たちは一気に攻め込んではこなかった。


 三メートルくらい先で足を止めて、じぃっとこっちを見ている。


 慎重に後ずさる。女たちは動かない。ただ俺を見つめている。


 更に数歩後ずさる。すると、急に動いて即座に距離を詰めてくる。


「うわあっ、うわっ」


 俺は身を守る為に両腕を顔の前で交差させる。


 目の前まで詰め寄られて、襲われる――と思ったが、一メートルくらいの距離を残して女たちは止まった。


「マジで、マジで何だよ」


 心臓が悲鳴を上げている。冷や汗が止まらない。


 俺は女たちからなるべく視線を外さず、後退する。後ろと、足下を確認しながら、慎重に。離れて、迫られての生殺し状態が続く。


 生殺しは、するのもされるのも嫌いだ。だが、助かる見込みがあるのなら話は別だ。


 野締めで終わってたまるか。俺は、俺は足掻くぞ。


 腹を決めたところで臭気。吐き気を催して気持ちが萎える。


 原因は、三人目の女だ。


 三人目の女は、緑のシャツを着て、デニムのホットパンツを履いている。


 肌は垢まみれみたいな汚さを感じる色で、白い肌の二人よりも臭う。圧倒的に臭う。


 全員、汚れて破れた服を着ていて臭うが、それは腐臭や汚物臭だ。生臭さもあるが、結局は嗅いだことのある臭いでしかない。


 だが、三人目は別格で、桁違いの激臭を放っている。プラスチックを焼いた臭いとは全く違うが感覚は近い。ダイオキシンとか、そういう明らかに吸ってはいけない毒素が含まれている感じがする。


 体が全力で拒否しているのが分かる。例えるなら、此の世のものじゃない臭いだ。


 段々と詰め寄られることに慣れてくると、ホットパンツの女以外を望むようになってきた。接近されたときは必ず息を止める。そうしないと吐いてしまいそうになる。


 もう、何度かえづいている。胃から食道に持ち上がってくる内容物を飲み下しもした。酸味が口の中、特に舌の上にあるのも気分が悪い。唾液があまり出ないのも辛い。


 唇を舐めて、腕で額を拭う。血はまだ出ている。血混じりの汗も流れてくる。


 背中を向けても大丈夫なんじゃないか?


 そう思うが、それを試す勇気が出ない。


 いつまでついてくる気だろうか。もう好い加減、解放してもらいたい。


 胃が痛くなってくる。転んでからずっと涙目だ。もういやだ。泣きそうだ。


 やけになったつもりはなかった。ただ、現状を打破したかった。


 威嚇するつもりで、大声を出してナイフを地面に突き刺した。


 目の前にいたのはホットパンツの女だった。表情がみるみる変わった。


 顔が赤黒くなり、血管が浮き出て、目が充血してつり上がる。


 眼球がぐるんっと外を向いて、口が広がり、汚れた歯を剥き出しにする。


 どうも俺は、何かを間違ったらしい。


 手の届く距離に、怒り狂った化け物がいる。


 女は、音を発したときと同じように大口を開いた。


 終わった。


 骨が折れて、皮膚が裂ける音が聞こえた。


 女の口に、ブーツの踵がめり込んでいた。


 折れた歯が落ちて、口が裂けて下顎がぶら下がる。裂けた箇所から血が迸り、女は四肢を無茶苦茶に動かす。そして、人間の女と同じ甲走った悲鳴を上げた。


 絶叫。


 転がって、ひっくり返って、のたうち回る。


 何が起きたのか分からず、しばらく息をするのを忘れていた。


 俺の隣で、見知らぬ黒ずくめの男が片足を上げている。


 装いはパーカーにスキニージーンズ。フードを被っているので顔はほとんど見えない。くすんだ金色、もしくは黄色に近い薄い茶色の髪だけが少し見えた。


 男が足を下ろし、体を曲げる。そして、格闘技用の指貫グローブがされている手で、地面に刺さったままの俺のナイフを抜き、逆手に持つ。


 男はやんわりと歩き出した。それが、急に素早くなる。男は女たちの側に行くと、暴れているホットパンツの女の首にナイフを刺して、ちぎるように引き抜いた。そして残りの二人に近づくと、飛び掛かってきたブラウスの女を蹴り飛ばして木にぶつけ、その間に下着の女の頭を掴んで項からナイフを突き刺した。


 男は下着の女の首を横に引き裂きながら体を反転し、背後に襲い掛かるブラウスの女の首をナイフで貫いた。


 ほんの一瞬だったように思う。血飛沫が遅れたような錯覚。辺りが血の海になる。


 男は一握の躊躇いも見せることなく、肉を引きちぎるようにナイフを抜くと、その場に落とすようにして捨てた。


「おい、お前」


 男は背を向けたまま、顔だけを横に向けて言う。


「今見たことは忘れろ。誰にも話すな。撮影もするな。それと、死骸には絶対に近づくな。こいつらと同じ目に遭いたくなかったら、さっさと帰れ。分かったな」


 俺は何度か頷いた。


 男は鼻を鳴らすと、小さく痙攣する女を飛び越え、川の方に向かって駆けていった。


 俺は目の前の凄惨な景色を見ても思いのほか大丈夫な自分に驚いていた。





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