10.三野瀬 学(3)




 よし、反応した。


 思わず小さくガッツポーズ。だが、その小さな興奮は、女が岩魚を取りに向かう姿のおぞましさに、あっという間に掻き消された。


 ワサワサと手足を動かす様が底気味悪い。その速度も異常で、嫌悪と恐怖の対象でしかない。俺はすぐに目を背け、荷物を手に取るとまた帰り道を歩いた。


 両側が林なので、道幅が広くなったり狭くなったりする。それは構わないが、上下左右に蛇行するのと、地面に太い根っこが迫り出しているのが厄介だった。


 前と足下を確認するだけでも大変なのに、後ろまで気にする必要があるなんて最悪だ。


 それも、熊や猪なんかと違って、得体が知れない。何をされるか分からないのは本当に怖い。体も心も磨り減っていく感じがする。疲労が溜まっていくのが分かる。


 距離はどうだ。振り返る。俺は驚いて足を止めた。


「何、だよ」


 声が震えた。顔が引き攣って、頬が痙攣する。


 女が一人増えていた。


 短い黒髪で、上は赤い下着のみ。黒いスカートを穿いている。


 腕に三本、線状に抉れた傷がある。傷痕は塞がっておらず、動くたびに薄い桃色の肉が開いたり閉じたりする。血も僅かに出ている。たぶん、獣に引っ掻かれた痕だろう。


 生々しさに、えづく。


 二人の女は、おかしな体勢で岩魚を取り合っていた。十メートルほど後方で、互いを傷つけることなく、それでいて乱暴に餌を分け合っている。


 もつれて絡み、離れる。獣じゃない。これは、虫だ。虫の動きだ。


 二人が岩魚を骨ごとあますことなく咀嚼してこちらを向く。無表情。


 整った顔立ちだからか余計に怖い。肌の色も漂白剤に浸けたみたいで不気味だ。


 女たちが前足のように使っている左手をゆっくりと上げる。そして、下ろすと同時に右足を上げる。右手、左足、速度が増してゆく。頭が玩具のようにぐらぐら揺れる。


 はっとした。あまりに異常で見入ってしまっていた。


 俺はまたポケットから岩魚を取り出して投げた。


 女たちの様子を見ないまま、帰路に着く足を早める。


 岩魚は、残り一匹。


 敵が一人じゃないという事実を知って、焦りが出てきていた。


 そういえば。と思う。


 姉ちゃんが怯えていたのは、あいつらを見たからじゃないか?


 きっとそうだ。あんな訳の分からない奴を見れば、誰だって怯える。


 電話が掛かってきたのも、あいつら絡みのような気がした。


 あ、そうか、スマホ。


 電話で連絡することを思いつく。だが、すぐに舌打ちして頭から消した。


 両手が塞がっていて電話を掛けられない。


 掛けたとしても助けを呼ぶくらいしかできない。


 今の状況が好転するとは到底思えなかった。


 歩きながら、ナイフの差し込んである鞘を見る。


 どうしようもなくなったら、このナイフで。


 人を刺す? 俺が?


 胸におぞましさが押し寄せる。


 そんなことできるのか?


 歩みを進めては振り返る。それを繰り返す。


 岩魚を投げてから、二人の女の姿は見ていない。


 振り切ったのか? と思ったら足音が聞こえた。


「くそっ」俺は歯噛みした。


 山なりの道を歩いているから、位置によって見えたり見えなかったりする。


 甘い期待をした自分が馬鹿だった。


 また耳を突き刺すような甲高い音がした。


 間違いなく、あいつらが発した音だ。この音に一体何の意味があるのか分からないが、こちらを攻撃するのが目的だとしたら弱い。俺が音なんかでやられるか。


 そう思って、すぐに戦慄する。それと同時に考え直す。


 最初にあれが聞こえた後、何が起きたか思い返す。


 一人増えた、よな。


 あの音は、攻撃じゃなくて、コミュニケーションを取るためのものじゃないか?


 イルカのエコロケーションみたいに。


 もしそうだとしたら、あれがまだいるということになる。


 林が音をたてる。


 俺は更に足を早めた。


 呼吸が荒くなる。


 鼓動も速まる。


 振り返るが、見えない。


 前を見る。後どのくらい歩けば分岐点に戻れるのか。


 後ろから、物凄い速度で迫ってくるような足音がした。


 俺は振り返ると同時に最後の岩魚を捨てるように投げた。


 女は間近に迫っていた。俺は小さく叫んで身を竦めた。女の顔に岩魚が当たった。


 それ以上の状況を観察することなく、俺は走った。


 悠長にしすぎた。焦らないように気を遣いすぎた。


 もう後がない。


 林に身を隠せばやりすごせるんじゃないか?


 走りながら、林の中に入ってみようと左を向く。


 女の顔があった。


「うわぁっ!」


 度肝を抜かれて叫んだ拍子に、足がもつれた。悪いことに、体勢を整えようとして、跳ねた所に木の根があった。つま先が引っかかって前のめりになる。


「痛っ!」


 俺は派手に転んだ。もう竿とクーラーボックスは諦めるしかない。地面に両手をついて、体を持ち上げた直後に力いっぱい地面を蹴った。


 両腕を思い切り振って疾走する。軽い。最初からこうしていればよかった。


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