9.三野瀬 学(2)




 何だ?


 リールを巻いてルアーを回収し、竿を置く。


 釣りがどうでもよくなるくらい変なものが見えたように思う。見間違いじゃなければ、あれは四つん這いになった人だった。たぶん女だ。そんな格好だった。


 特に陽射しが強い訳ではないが、両手でひさしを作って上からの光を遮る。気持ち程度だが、見やすくなる。視界をゆっくりと横に移動させる。何も見当たらない。


「見間違いか?」


 独り言を呟きながら竿を手に取る。じゃあ、再開しようか。と、もう一度竿を振ろうとしてやめる。やる気が削がれた感じがした。もう、帰ろう。いや、帰った方がいい。


 妙に胸がざわついた。竿とクーラーボックスを持ち、帰り道に顔を向ける。そこで自分が恐怖していることに気づいて身震いした。よくよく考えてみると、これはすごく気持ちの悪いことだと遅れて理解した。自然と足が止まった。


 確認した方がいいな。これは。絶対に。


 寒気を感じながら、こっそり振り返る。対岸の林を見渡すと、白いものがいた。離れているので姿は小さいが、さっきよりは近い。


 白いブラウスを着て、緑のミニスカートを穿いた、長い黒髪の女だと分かる。女は木の後ろに隠れてすぐ見えなくなる。


 女が隠れた木をじっと見ていると、別の場所で物音がした。ガサガサと、地面に落ちた葉や草を散らしているような音だ。視線を向けると、音が止まる。


「な、何だよ」


 さっきまでいい場所だと思っていたのに、不気味な空間に早変わりしてしまった。


 緑が豊かな風景も、涼しげな水の音も、穏やかな陽射しも、酷く怖しく感じられる。


 俺、ここに一人なんだよな。


「あ」


 体が固まる。


 川を挟んだ向こう側の、最も手前にある木の幹から、女がぬるりと顔を出した。


 薄暗がりの中の、白い女の顔。


 うつ伏せになっているのかと思うくらい、顔の位置が地面に近い。


 女は俺を見ている。距離がそう遠くないので、顔かたちや表情も何となく分かる。


 眉がなく、一重。無表情。唇だけが赤い。


 瞬きしない。じっとこっちを見ている。見つめている。


 俺は、固唾を飲んで後退する。


 足下の砂利が鳴る。


 女がこっちを見たままゆっくりと幹の裏に顔を隠す。


 俺はいつの間にか息を止めていたらしく、胸の苦しさから一気に息を吐き出した。


 なるべく音を立てないように気を遣いながら、呼吸を整える。


 同時に、緊張していたことを覚る。鼓動が早い。はやる気持ちを抑える。


 女は徐々に近づいてきている。


 最初は百メートル以上離れていたはずだ。


 それが今は二十メートルあるかないかだ。


 何が目的かは分からないが、俺を目当てに動いている可能性が高い。


 本当は一目散に逃げ出したい。だが、とてもじゃないがロッジまで走り続けるなんて真似はできない。荷物もある。絶対に途中でへばってしまう。


 それに、まだ俺を狙っていると決まった訳でもない。無駄に体力を使う必要はない。


 焦らず、冷静に判断する。心で自分に言い聞かせる。


 もし、襲ってくると仮定した場合、何が不味いかを考える。


 それは、疲れだ。スタミナ切れ。


 確実に逃げ切るなら、襲い掛かられても対応できる体力が必要だ。


 走らず、かといって慎重にしすぎず、とにかく普通に歩く。


 帰りが楽になるような場所を選んでよかったと心の底から思う。もう林道に入った。


 背後で水の音が変化した。明らかに何かが渡っている。


 後ろを、できる限り小さな動きで確認する。


 いる。


 蜘蛛のような体勢の女が、川を渡り切っていた。


 既に十メートルくらいにまで距離が狭まっている。


 こっちをじぃっと見ている。


 俺は視線を戻して歩いた。狭い林道を進む。


 十メートルくらい歩いて、またなるべく小さな動きで振り返る。


 やっぱりいる。堂々と、道の真ん中に陣取って動きを止めている。


 可能性が確信に変わる。あの女は、俺を狙っている。


 唐突に、女は顎が外れたような大口を開けた。


 直後、きつい耳鳴りがした。


 俺は両手が塞がっているので咄嗟に耳を塞げなかった。


 驚いたが荷物は落とさなかった。顔をしかめて歩く。


 何だったんだ?


 音はすぐにやんだ。残響が少し残っているが、大したことはない。


 歩きながら、顔だけで振り返る。


 女がさっきとほとんど変わらない位置にいた。少し距離が開いた。


 不意に思いつく。俺は立ち止まり、クーラーボックスを開けて岩魚を三匹全部取り出した。


 臭くなるとか、勿体無いとか、そんなことはもうどうでもよかった。二匹をナイロンジャケットのポケットに入れて、一匹を女の頭を超えるように投げた。


 岩魚が放物線を描いて飛ぶ。女はそれを顔で追った。


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