8.三野瀬 学(1)




 俺は電話を切ってからもしばらく釣りを続けた。


 涼しくて居心地が良いし、魚影も濃くて、もう二匹も岩魚が釣れていた。


 こんなにいい場所を、一時間足らずで諦めろというのは酷な話だと思う。 


 この川に来るまで結構歩いたし、勿体なさもあって、帰れと言われても従う気には中々なれなかった。


 少しくらい遅れても大丈夫だろ。どうせ大した用事でもねーんだから。


 訳の分からない理由で帰ってこいと言われた経験は一度や二度じゃない。今回もそうに違いないと思う。


 電話の向こうで怒ってても、帰ったら何事もなかったような顔で迎えられるんだ。そんな気まぐれに振り回されてたまるかっての。


「おっ」


 ちょっとした振動が竿を手にする指に伝わる。


 合わせる。


 ラインが張って竿先がしなる。


 ぐんっと持ち手を握る手が引っ張られる。


 力で捩じ伏せるように素早くリールを巻く。


「よっしゃあ」


 手元に三匹目の岩魚がきた。が、まだ掴まない。


 空いた手を川に突っ込んで冷やしてから掴む。


 こうすると暴れにくいと友達から聞いた。


 魚を掴んだときに暴れるのは、人間の手の温度が高すぎて火傷してしまうかららしい。


 火傷は痛い。そりゃ暴れたくもなるだろう。


 実際、しっかり冷やした手で掴むと、あんまり暴れなくて締めるのに都合が良い。


 野締めはよくないので、釣ってすぐにナイフで。


 それから川で血のついた手とナイフを洗う。


 ナイフはフィッシング専門店で最近新調した。出刃包丁を小型化したようなフォルムのシースナイフだ。


 突き刺すのにあまり適していないが、切れ味がよくて頑丈。柄と刃がぐらつくことがないので安心感がある。


 多少乱暴に扱ったがびくともしない。期待以上の使い心地に満足している。今日初めて使ったが、買ってよかったと思えた。


 心ゆくまでナイフを眺めてから鞘に納め、ストッパーを留める。


 それから締めた岩魚をクーラーボックスに丁寧に寝かせるように入れる。


 ふぅ、と息を一つ。


 魚を釣って締めた後は、毎回変な気分になる。


 美味しそうと思いながら、グロテスクだとも思う。


 嬉しいと思いながら、可哀相だとも思う。


 それに、命を奪った罪が体に入り込んで蓄えられたような気がする。


 正直、あまり気持ちのいいものではない。


 だが、だからといって、野締めする気にはならない。


 もし自分が魚だったらと考えたとき、それが一番むごいと思うからだ。


 口に太い針が引っかけられて、自重のすべてをその一点で支えさせられる。


 人間だと、クレーンのフックを口に突っ込まれて、ほっぺたを貫通した状態で吊り上げられる感じだろう。


 それから一気に酸素の薄いところまで上昇させられて、火傷するような温度の巨大な手に掴まれる。


 そんな状態を想像するだけでも怖いのに、その後、時間をたっぷりかけて窒息死するなんて地獄だ。


 それなら一瞬で殺された方がましだと思う。


 生殺しはしたくないし、されたくもない。


 だから一思いに命を奪う。


 そういう正当化を、息を吐くことで完結させる。この儀式で、俺は毎回変な気分を緩和している。


 よし、やるか。


 俺はまた竿を振り、小さくしゃくりながらゆっくりとリールを巻く。


 ラインが戻ると、またその動作を行う。ルアー釣りはこの反復作業。


 単調な動作なので、しょっちゅう景色に目を遣る。


 苔むした岩が幾つもあって、向かい側の林まで緑が続いている。そこを乗り上げるように、隙間を縫うように、水が膨らんで流れてくる。


 段差で勢いが塞き止められて、溜まって、溢れて、滝のように落ちて、それから幾筋にも分かれて、かと思えばまた合流して、それが繰り返されて下流に向かう。


 石も岩も、角が丸みを帯びている。絶対に硬いと分かっていても、柔らかそうに見えてしまうのは、この場所の雰囲気が影響しているのではないかと思う。


 戻ったルアーから水飛沫が跳ねた。顔にかかる。冷たくて気持ちいい。


 こんなにいい釣り場があるんなら、もっとちゃんとした準備をしてくるんだった。


 長靴すら履いていないので、移動もままならない。


 そこまで本格的にやる気分ではなかったはずなのに、いざ楽しみ出すと、ないものねだりになってくる。


 逆に持ってきた物を不便に感じたりもする。クーラーボックスが邪魔で仕方ない。氷袋を入れたリュックを持ってこればよかった。


 こういう思いが出てくると、ストレスの方が上回ってくる。帰ってこいとも言われているし、魚の食いも悪くなってきたから丁度いいように思えた。そろそろ潮時だ。


 後、一匹釣って締めたら帰ろう。それで家族分になる。バーベキューで塩焼きを作って食おう。そうすりゃ誰にも文句は言われないだろう。むしろ褒めるんじゃないか?


 そう思いながら竿を振ったとき、視界の端で何かが動いた。


 視線を動かす。気の所為ではなかった。白いものがいた。


 目を凝らして見ていると、それは木陰に隠れた。


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