7.三野瀬 愛美(7)




「お父さん」


 私が手を挙げて呼ぶと、父は疲れた顔で頷いた。父の側に歩み寄る。


「どうなったの?」


「ああ、駄目だ」


 父が息を切らして言う。


「逃げられた。林の中に、行っちまった。全然、追いつけなかった。一体、何なんだ、あいつは」


 父が息を整えながら続けて言う。


「はあ、でも、警察と、救急車は、もう呼んであるらしい。一緒に追い掛けた人たちと話した。あの男、三日前からいたらしいぞ。もっと前からいるんじゃないかって話だ」


 私たちは、歩きながら話す。


「ここの管理してる人は知らないの?」


「どうだかな」


 父がおでこを撫でて言う。


「稼ぎ時にロッジを無料で使っていいって言うぐらいだ。もしかすると、あいつが噂になって人が来なくなってたのかもしれんな」


 父が何かに気づいたような顔をして、私の手首を掴む。


「おい、愛美、お前、怪我したのか?」


「え?」


 私は手を見た。血がついていた。確認すると、シャツには細かく飛散したような血痕が幾つもあり、ズボンの膝にも血が染みた痕があった。


 いつの間に。寒気が走る。気持ち悪い。


 手首が濡れている。


 そういえば、父はおでこを触った手で私に触れていなかったか?


 しっとりとした感触だった。走った後の汗を拭った手で、私の手首を掴んだ?


 寒気と、もどかしさに身悶えそうになる。


「あ、こ、これは」唇が震えた。「あの女の人の」


「ああ、あの人、どうなったんだ?」


 私は父に気づかれないように手首をシャツの裾で拭いながら、身を捩りそうになるのを誤魔化すために大きく首を横に振る。父は項垂れた。


「そうか。まぁ、そうだろうな。だけどまぁ、何というか、さっきの男も不気味だが、俺はあいつらも気持ち悪いよ」


 父が呆れたように言って野次馬を目で示す。


 私は父に覚られないように一度大きく身震いしてから、示された方に目を向けた。まだ撮影は続いている。胸の不快感が大きくなる。


 手首の臭いもこっそり嗅ぐ。血と汗臭い。寒気立つ。


「非常識って言葉、知らないんだろうな。知っててもそれでいいって思ってんのか。だとしたら、恥知らずだ。学もああいう手合いになってくような節がある。今まではこれも時代だと思って放っておいたが」


 父が言葉を止め、はっとしたように立ち止まる。


「学、学は」


 父が自分の体をまさぐるように触る。ポケットを叩いたり、中に手を突っ込んで探ったりする。父がスマホを探しているのだと覚った私は、自分のスマホを取り出そうとして、躊躇した。手に血がついていたからだ。


 手が汚れているだけで気分が悪いのに、スマホまで汚れるのはいやだった。まずは手をよく見て、汚れの有無を確認する。


 指には血がついていなかったので、ズボンのポケットからスマホを取り出し、タッチパネルを素早く操作。ナンバーロックを解除して学に電話した。


 父がスマホを探すのを止めて、私の方を心配そうに見る。


 数回の呼び出し音の後、学の声がした。


「――何?」


 不機嫌そうな大きな声の後ろで、水の流れる音がする。


「――今、忙しいんだけど」


 私は父を見て微笑み、軽く息を吐く。と、父が私の手から両手でスマホを奪い取る。

「学、すぐ帰って来い。……何でじゃない、つべこべ言わず」


 私は父からスマホを奪い返し、スピーカーにする。


「――何かあったの?」


 呑気な大声がスマホから響く。


「――あ、おい、スピーカーにしただろ」


「そんなことはどうだっていいんだよ。いいから早く」


「――うわぁっ」


 学の叫び声がした。私は父と顔を見合わせる。父は緊張した面持ちになっていた。


 私はすぐに呼びかけようとしたが、


「――すっげー! めっちゃ跳ねた!」


 と、すぐに学の興奮した声と笑い声が続いたので、声の代わりに安堵の息を漏らした。


 だけど、父は少し間を置いて目を覆った。安心よりも腹が立ったようだった。


「おい学」


 父が苛々した様子でスマホに向かって言う。


「釣りをやめて、帰って来い。今すぐ」


「――何? 聞こえない」


「早く帰って来いって言ってんだ!」


「――はぁ? やだよ」


「あのね、学。人が殺されたの」


 私はどう言えば学の危機感を煽れるか考えて言う。


「さっき私が見た男の人が、キャンプ場で人を殺して、そっちの方に向かったの。危ないから、早く帰ってきて。お願いだから」


「――え、ごめん、何?」


「いいから早く帰って来い!」


 父がスマホに向かって怒鳴りつける。


「いい加減にしろ! この馬鹿! お前を置いて帰るぞ!」


「――何怒ってんだよ。分かったよ」


「学、変な人がいたら」


 私が喋っている途中で通話が切れた。私はやるせない気持ちのまま父にスマホを渡す。父はスマホを受け取り、シャツの胸ポケットにしまうと肩を怒らせてロッジに向かった。学を迎えに行くつもりはないらしい。元々はそういう気でいたのかもしれないが、怒りで忘れたのだと思う。


 私は一度、学のいるであろう方向に視線を向けてから、父の後を追った。



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