6.三野瀬 愛美(6)




 母は眉間に深く縦皺たてじわを刻み、前のめりで凝視する。そうするのも無理はない。遠くてよく見えない。


 私は急いで室内に戻り、学のバッグから双眼鏡を取り出しテラスに出る。片目に双眼鏡を当て、肉眼と使い分けて窓の外を見た。


 野原に、ついさっき見た男がいた。破れたスーツを着ていた。前がはだけて、シャツが見える。熟れたバナナの皮みたいに黄ばんで所々が染みになっている。色合いから見て、たぶん元の色は白なのだろうけど、とてもそうだと断定できそうもない。


 男は両手足を使い、左右に頭を振りながら地面を這うように移動していた。右手には頭のない蛇を握っていて、時折、思い出したようにかじり、口を開けて噛み砕く。口の中は赤黒くなって、汚れた歯が糸を引いている。表情はない。


 周囲に小さな野次馬の群れができ、ざわついている。


 悲鳴が上がる。


「なんだ、おい、どうした」


 父が柵を掴んで、目を細める。


「わ、わ、母さん、母さん警察だ、警察に電話」


「は、はい」


 母がスマホを取りに向かう。


 両親が慌てふためく。私は家族の動きに気を取られて何も見ていなかった。


 何? 何が起きたの?


 私は再度、野原に視線を向けた。男は野次馬を威嚇するような動きをしていた。その側に、血で顔と首、衣服が赤黒く染まった女の人が倒れていた。


 私は息を飲んで、双眼鏡で確認する。


 女の人の首が抉れている。傷はかなり深そうで、血が噴き出している。


「あの人、まだ生きてる」


 自然と体が動いていた。助けなければという思いが働いた。


 私は部屋に戻り、使えそうなものがないか見回した。キッチンの壁にフライパンが掛かっているのが目に入った。急いでそれを取りに行く。


「愛美」


 父が呼びながらついてくる。


「愛美、おい」


「助けなきゃ」


 私は早足で玄関に向かう。


「待て、待てって!」


 父が私の手首を掴んで怒鳴り、フライパンを取り上げて言う。


「お、お父さんが行くから」


 父は顔をひくつかせながら玄関に移動し、一度大きく息を吐いた。


「行くぞ、よし、よし、行くぞ」


 そう呟いてから、勢いよく扉を開けて外に出る。


 父は急ぎ足でロッジの裏に回ると、雄叫びを上げて坂道を駆け下りた。


 私もその後に続く。


 父がフライパンを振り上げながら野原を走る。


 男は父に気づくと素早く背を向けた。そして野次馬の間を掻い潜り、脱兎のような勢いで林に向かって駆け出した。父と数人の男の人たちが後を追う。


 人の動きじゃなかった。


 両手足を広げて地面に着けて、あんな形で素早く移動できるものなのかと目を疑う。そもそも、体の関節がおかしくなっていた気がする。無理のある体勢だった。


 生理的に受けつけない、どこかで見た記憶がある形、動き。胴体が腹ばいに近く、肩と股の関節が、肘と膝の関節よりも低い位置になるような、あの気味の悪い形。


 そう、虫だ。そうだ、あれは蜘蛛だ。


 私は一瞬見送って身震いした後、すかさず倒れている女の人の元に駆け寄る。


 野次馬がわらわらと集った。


 私は女の人の側に膝を着き、状態を確認した。


「酷い」


 女の人は若かった。化粧もしていて、家族と一緒に来た風には見えない。おそらく友人と遊びに来ていたのだと思う。カジュアルで露出の多い装いが開放的な印象を与える。まさか、楽しんでいた最中にこんな末路を迎えるとは思わなかったに違いない。


 女の人は横向きに寝た状態で、目を開けたまま死んでいた。首の側面が深く抉れて、骨が見えている。その傷口と半開きになった口から滔々と血が溢れ、レジャーシートの上に血溜まりができていた。右手に握られたスマホが、そこに浸って真っ赤になっていた。


 女の人の知り合いと思われる人たちが、野次馬を掻き分けてやってきた。私の側に来て遺体を囲む。思った通り、友人らしき若い男女だった。皆、何が起きたのか分からないという顔をしている。多分、騒ぎに気づかなかったのだ。


 彼らは、女の人の体に触れ、揺すり、呼びかけて、泣き喚いた。


 私は、いたたまれない気持ちになった。


 父は、どうなったろう?


 顔を上げて、総毛立った。周囲の野次馬が、手にしたスマホ越しに私たちを見ていた。


「すっげー、うわ、グロ。これアップしたらバズるっしょ。俺ら一気に有名人じゃん」


 そんな無責任な言葉を発しながら、撮影していた。


「何してんだよ、おい、お前ら、何撮ってんだよ!」


 若い男の人が野次馬に食って掛かる。口論になり、罵声が飛び、突き飛ばし、喧嘩になる。それでも撮影はやめない。


 私は野次馬の隙間を潜るようにして抜け出し、父の姿を探した。父は一緒に男を追い掛けた人たちと連れ立って戻ってくるところだった。


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