4.三野瀬 愛美(4)




「うっ」


 思わず呻いて鼻を袖で覆う。嗅いだことのあるすえた堆肥臭たいひしゅうに、初めて嗅ぐ謎の臭いが混ざった強烈な悪臭が漂ってきた。


 鼻が腐るんじゃないかと心配になるほど臭い。間違いなく日常では嗅ぐことのない臭いに、変に心を惹かれてしまう。


 何の臭いだろう? 死体があるとか?


 そんな考えが脳裏のうりぎる。興味本位でどこから臭っているのかを探ると、どうも臭気の原因は草むらにあるようだと分かった。


 さっき来たとき、こんな臭いしてたっけ?


 記憶になかった。こんな激臭があったなら、そのときに気づかないはずはないと思う。けど、もしかすると風向きが影響したのではと考えが至る。さっきは後ろから風が吹いていたような気がしなくもない。


 山林の前に生い茂った草むらは、地面がどうなっているか確認できないくらい密集している。かなりの広範囲だ。人の死体が置かれていたとしても分からないだろう。


 まさかね。


 そう思いながら、視線を巡らす。


 右へ。左へ。


 そこで、草むらから何かがはみ出ていることに気づいた。


 破れた革靴のように見えた。


 目を細め、顔を前に出してしっかり見る。やっぱり、革靴に間違いなかった。つま先から半分ほど靴底が剥がれていて、そこから汚れて黄ばんだ靴下が見えている。


 嘘でしょ。


 恐る恐る、近づいてみる。と、不意に、靴下の先端が大きく曲がり、ガサッと革靴が草むらに引っ込んだ。


 私は少し驚いて半歩ほど後ろに下がった。


 不穏な気配がした。


 草むらが音をたてて動く。革靴が出ていた場所からこちらに近づいてくる。私の目の前の草が掻き分けられて――。


 男の顔が出た。


 下膨しもぶくれた輪郭りんかく、大きな鼻と分厚い唇。あかが溜まっているような黒ずんだ肌の色。


 まとまりのない、脂でべたついたような黒髪。ひげはまばらに伸びている。


 丸く開かれた小振りな目。だけど瞳は、私を映していないように見える。


 どこか虚空こくうを見ている。そういう印象がある。


 私は金縛りにったようになってしまい、ただ男を見下ろしている。男も、私の腰くらいの高さから、ただ私を見上げている。


 男の瞳は欠片かけらも動かない。まるで眼球が固定されているように。


 ふと、男の口の端から何かが出ていることに気づく。食べかすのような。


「ひっ」


 私は声を吸った。背筋を冷たい手で撫でられたような悪寒おかんが走った。


 男の口の端にあったものが動いて、にゅるんっと飛び出た。


 それは、かえるあしだった。緑色の、それなりに大きな蛙の脚が、男の唇の隙間から出てきて膝関節を伸ばしていた。


 蛙は口の中で跳ねているようで、細かく、断続的に、何度も膝関節から下が伸びる。


 男は相変わらず私の方を見て動かない。それが、いきなりにっこり笑った。蛙の脚が、もがき続ける。ふくらはぎが収縮する。水かきが張る。太股が膨らむ。


 ブツッ――。


 千切れた脚だけが、地面で跳ねた。ぴんっと伸びる。男はそれを手で素早く拾い上げて口の中に放り込むと、勢いよく咀嚼そしゃくし始めた。きゅぅ、という柔らかな命の断末魔だんまつまと、その内部にある骨が折れて割れる音が私の耳に入ってきた。


 男は口の端から垂れてきた血をべろりとめ取ると、ごくんと嚥下えんげし草むらに顔を引っ込めた。すごい勢いで草が揺れた。男は素早く草むらを抜け出し、奥の林に姿を消した。


 私は血の気が引いたようになっていた。足がブルブル震えて、胃から車中で食べたサンドイッチが上がってくる。道路の端にある林の側に走り、一気に吐瀉としゃした。


 息を切らすと、また悪臭。鼻腔びこうにこびりついている気がする。逃げるように歩いて、それでも吐き気が消えず、吐くものがなくなるまで涙と鼻水をこぼしながら嘔吐おうと


 歩いては立ち止まりを繰り返し、臭いが届かなくなる所まで移動して、ようやく私は放心した。その場に座り込むと、ぞわぞわと恐怖が湧き起こった。


「あの山は、いるよ」


 祖母の顔と声が思い出される。


「何かがだよ。祟られるんだよ。草むらにいた蛇をね、頭からガブッと食べたんだ」


 男の口の端で噛み千切られた蛙の脚が、地面に落下して、跳ねる。


 そこまでが脳内で再生され、私は耳を塞いで大声を出した。


「どうした!」


 振り向くと、父が血相を変えて駆け寄ってきていた。釣竿とクーラーボックスを持った学も一緒だった。父と学の顔を見ると安心して涙が出てきた。私はしばらく、学にしがみついて泣いた。学がいやがって離れると、父が私を抱擁し、背中を擦り続けた。




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