2.三野瀬 愛美(2)




「姉ちゃん、なぁ、姉ちゃん」


 呼ばれて、回想が途切れた。意識が車の後部座席にいる現実に引き戻される。


 隣に顔を向けると、学が変な顔で鼻をすんすん鳴らしていた。


「何?」


「すかした? 何か臭ぇんだけど」


「どうせ、お父さんでしょ」


 私は冷たく言ってそっぽを向いた。いやしくも乙女だ。人前でおならなんかするか。


 窓の外で濃緑の林が流れていく。それを見ながら胸を悪くしていると、


「よく気づいたな。そうだよ、俺だよ」


 という父の笑い混じりの声が聞こえた。


「馬鹿ねぇ。愛美がそんなことする訳ないじゃないのぉ」


「だよね」


 学が笑いながら言う。


「でも姉ちゃんだったらマジで面白ぇなと思って。潔癖気味のすかしっ屁。てか、父さん、これマジで臭ぇよ。何食ったらこんなの出るんだよ」


「あん? 何ってお前、お前と同じ物しか食ってないよ」


「やだぁ、もう、本当。何これ、腸が悪いんじゃないのぉ?」


 母と学が臭い臭いと文句を言いながら窓を開ける。緑の匂いを乗せた風が吹き込んできて髪がなびく。豊かな自然の空気に触れると、目的地が近づいているのを実感できた。


 ゴールは御影山みかげやまキャンプ場。今年の春にオープンしたばかりの行楽地。出来て間もないからか、レビューコメントはなく評価もついてない。山の中腹から望む景色と満天の星を売りにしていたけど、そのありきたりなうたい文句から、おそらくどこにでもあるようなキャンプ場なのだろうと想像している。看板が見えてきたのでそろそろ到着するだろう。


 それにしても遠かったな、と思う。スマホで時刻を確認すると家を出てから約二時間が過ぎていた。先隣の県にあるので高速道路を利用したのだけど、下道に出てからの移動距離が長かった。とはいえ休憩もしているし、時間的にはこんなものなのかなとも思う。


 朝食はトイレ休憩で立ち寄ったサービスエリアのコンビニで買った。母と私はレタスサンドとペットボトルの紅茶。父と学はおにぎりとペットボトルの緑茶を選んだ。


 我が家は何をするにも男女でしっかりと割れる。なので話がまとまらない。


 だけど今回は違った。宿泊方法を話し合ったとき、荷物を用意するのが面倒だった父と、虫が苦手な母と私の意見が合い、テントではなくロッジを利用することになったのだ。


 家族で唯一テントを希望していた学は、


「それじゃキャンプに行く意味ねーじゃん」


 と仏頂面で言って、テントがどれだけ素晴らしいものなのかを力説していた。でも誰もその意見には賛同せず、アランさんが一緒だからという父の説得でようやく諦めた。


 アランさんは我が家で飼っている黒猫だ。品種はアメリカンショートヘア。家族歴はもう四年になる。年齢は人間に換算すると三十路超え。だから私は、さん、をつけて呼んでいる。落ち着いた猫なので、家族の皆から愛されている。


 そんな可愛いペットのために、学は折れざるを得なかった。という風に見ていたけど、ロッジを目にしてはしゃいでいる様子を見ると、どうなのかなぁと思ってしまう。本当のところ、別にそこまでテントにこだわっていなかったのかもしれない。


 切り替えが早いというか、単純というか。


 呆れたような羨ましいような気分でいるうちに、車がロッジの横に止まった。


「よーし、着いたぞー」


 父は運転席から降りてすぐにずんぐりした体を伸ばし、肩を回したり腰をひねったりして、体をほぐした。


 七分袖のシャツを肘までまくり、裾をデニムジーンズに入れている。でっぷりしたお腹がよく分かってみっともない。


 団子鼻で、目がくりくりした顔立ちと合わせれば、着こなし一つで可愛く変わると思うのだけど、それを言うと新しいスマホが手に入らなくなるおそれがあるので、私は口をつぐんでいる。


 学は扉を閉めたなりトランクに向かった。


 弾むように歩いて、楽しみで仕方がないように見える。


 子供か。と、思わず心で呟く。口には出さない。返事にいらつくから。


 学は昨年の一年間で背がぐんと伸びて体格もよくなった。その分より生意気にもなり、口を開けば喧嘩になるのであまり相手にしないようにしている。


 顔立ちはエキゾチックだと私の友達は言う。姉の私からすればよく分からないというのが本音だけど、どうやら人気はあるらしい。


 装いはシャツとハーフパンツ。家族の中でキャンプに適した格好を用意しているのは学だけだ。といっても、やはり暑いので基本は今着ているもので過ごすらしい。


 釣りに行くときのナイロンジャケットやレギンスなんかはバッグに入っていて、釣具やグッズを含めて家族で一番荷物が多い。私とは大違いだ。


 学がトランクを開けて荷物を取り出している間、大柄で痩身そうしんな母は、自分より背の低い父に上からねぎらいの言葉を掛けていた。大柄といっても、飽くまで女性としてはというだけで、実際はモデルのような体型と表現しても構わないと思う。


 私は母のスレンダーな容姿に憧れているところがある。母が着ているのは父と色違いの服だけど、もちろんズボンにシャツを入れてはおらず、袖もまくっていない。着こなしだけで、まるで別物を着ているように見える。何を着ても似合うのは羨ましい。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る