1.三野瀬 愛美(1)




「あの山は、いるよ」


 ケアハウスの職員に連れていかれる前に、祖母は静かにそう言った。


「何が?」


 父がいた。祖母は父に小柄な体を寄せ、ささやく。


「何がって、何かがだよ。たたられるんだよ」


「お、おいおい何だよ」


 父が顔を引きつらせた。祖母は頬のこけた顔を青くして言った。


「見たんだよ。よっちゃんが草むらにいた蛇をね、頭からガブッと食べたんだ。よっちゃんは、変になったってんで、家に隠されてたんだ。そういううわさが立ってたんだよ」


「あ、ああ、そう」


 父が眉を下げた笑みを浮かべて、幼い子供をあやすように言う。


「お袋、すぐ帰ってくるからさ、心配しなくていいよ。大丈夫だから、な?」


「おたくさん、どちら様?」


 言葉を失う父をしばらく見つめた後で、祖母は薄い白髪しらがを揺らして私に顔を向けた。


「お姉ちゃん、よっちゃんがね、腰縄こしなわ持ったお爺さんをじぃっと見て笑ったんだよ。よっちゃん、どうしちゃったんだろうね? 犬のお散歩みたいだったよ。それでね」


 父と職員が止めてしまったので、祖母の話は最後まで聞けなかった。でも、たとえ途中であったとしても、私の心に不安の種を植えつけるには十分だった。


「いやぁ、ありゃ、だいぶ進んでんな」


 父が寂しげに苦笑する。


「さて、行くか」


 祖母を乗せたケアハウスの送迎車を見送った後、呆気に取られた家族に向かい、父は明るくそう言って車の運転席に乗り込んだ――。


 数日前のことだ。デイサービスで不在の祖母を除いた家族四人で食卓を囲んでいるとき、父がお盆休みを利用して家族で二泊三日のキャンプ旅行をしようと言い出した。


「マジで! やった!」


 弟の学は乗り気だったけど、


「えー、虫いっぱいでしょー?」


「そうよねぇ、私も嫌だわぁ。人も多そうだしぃ」


 という具合に私と母は乗り気ではなかった。


 父は意見が割れてまとまらないことを予期していたのだろう、カレーライスをくちゃくちゃと不快な音をたてて咀嚼そしゃくしながら、私にスプーンを向けて言った。


愛美まなみ、お前、新しいスマホ欲しいって言ってなかったか?」


「え? 何、買ってくれんの?」


 私は前のめりで訊いた。すると父は私の胸辺りにねっとりとした視線を向けて、「キャンプに行くならな」と言い、カレーライスに視線を戻した。


「じゃあ行く」


 私は即座にその条件に乗った。すると、学が不服そうな顔をして言った。


「え、なんだよそれ。姉ちゃんばっかりずるくね?」


「お前は行きたいんだろ?」


 父は学の抗議こうぎ一蹴いっしゅうし、食事する手を止めずに言う。


「じゃあ、それでいいじゃないか。お姉ちゃんが断ったら行けなくなっちまうんだぞ」


「ちょっと、お父さん」


 母がごねたように言う。


「物で釣るのは卑怯ひきょうよぉ。それに、お義母かあさんはどうするのよぉ」


「あー、大丈夫、大丈夫」


 父は面倒臭そうに言う。


「お袋はケアマネさんにお願いすりゃいいだろ。宿泊が無理なら、叔父さんとこに頼めばいい。たった三日だ。叔父さん、お袋とは仲がいいから、喜んで引き受けてくれるよ」


「アランさんはどうするの?」


 私は訊いた。猫のアランさんは私の足下で餌に貪りついている。


「そりゃ連れて行くよ。アランだって家族だ」


「お墓参りは? 掃除だってあるしぃ」


「今年はいいだろ」


 父が無関心っぽく言う。


「毎年やってんだ。一年くらいサボったってご先祖様だって許してくれるよ」


 母はずっとごねたような口調でいかにも不満げな様子だったが、父はこの後も軽くあしらい続け、まるで相手にしなかった――。


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