第183話 生への執着

 今から9年前。

 それはいつもと変わらぬ日常――のはずだった。


 いつものように下級の鬼が夜中に屋敷に忍び込んで、貴族の娘を攫う。

 いつものように、酒呑童子や位の高い鬼がその娘たちを喰らう。


 ストレスなく、大事に育てられた若い生娘が揃う貴族の娘は、鬼たちにとって最上級の馳走であった。



「ぐ……何だ。どこからかおかしな臭いがする」


 ある日、酒呑童子の前に眠らされた娘たちが荷台に積まれて運ばれてきた時のこと。酒呑童子が眉間に皺を寄せて言うと、側近の従者があることに気づく。



「酒呑童子さま。腹に子がおる娘が紛れているようですじゃ」


「なんだと? 余が生娘しか口にせんことを知らぬわけではあるまい。よく確かめもせずに誰が連れてきた?」


 酒呑がギロリと睨むと、周りにいた従者たちは揃って身を縮めた。



「まぁまぁ酒呑よ。そうすぐに目くじらを立てなさんな。とりあえず娘の腹の子を出してやったらどうだ?」


 隣に座る茨木の進言を聞くと、酒呑はしばらく黙考したのち、従者に娘の腹から子を取り出すように指示を出す。


 従者たちが娘を奥の部屋に連れ去ってから一刻が過ぎた頃、子が生まれたという報が届く。しかし、報せに来た従者からは驚くべき話が続けて語られた。



「生まれた子ですが、酷く衰弱しております。が、生への執着が尋常ではありませぬ。母親の乳を飲み干すと、そのまま乳房を食いちぎり、肉を喰らい始めて……」


「なに? 人間の子は生まれつき歯など生えておらぬだろう」


「それが生えているのです。赤子はその歯を立てて衰弱していた母親をかみ殺してしまいまして、我らもどうしたものかと……」


「ほぅ、それは興が乗る話よ。今すぐに赤子をここへ連れてこい」


 従者が連れてきたその赤子は確かに息も絶え絶えで衰弱しているように見えたが、血で真っ赤に染まった口元と、生にしがみつくような異様な目力は人の子とは思えない迫力を秘めていて、それは酒呑の関心を誘うには十分の代物だった。



「ふん、ほっとけば死にそうだな。どう思う、茨木」


「お前さんは人間を滅ぼすつもりなんだろう? なら殺せばいいと思うけど。でも、この子はちょっと普通じゃないね」


「ああ、余も同じことを思っていた。この赤子は興味深い。その眼に宿る狂気は人にあらず、まるで我らと同じ鬼のようだ」


 そう言うと、酒呑は自らの人差し指を折りちぎり、赤子の前に放り投げた。



「さぁ喰らうがいい。これで貴様も鬼と化す」


 その言葉を理解したかは定かではない。だが、赤子は酒呑の投げた指を猛烈な勢いで食べ始めた。しかし、すぐに咳き込むと肉片を吐き出してしまう始末。



「……見込み違いか? 鬼への耐性がないのなら一思いに殺してしまうか」


 酒呑が真っ赤な双眸を向けて赤子を焼き殺そうとしたその時。茨木の左耳がポトッと赤子の前に落ちる。



「まぁ待て。あたしも一口乗ろうじゃないか。お前さんの黒属性とあたしの白属性。知らないけど、味は全然違うんじゃないか。母親を喰らうほど腹が減っているのなら、鬼肉の味に慣れてきたらどっちも食べたりしてね」


「ほぅ、黒と白の肉をどちらもか。それは面白い。いまだかつてそんな鬼は聞いたこともない」


 赤子は茨木の耳と酒呑の人差し指を同時に口にする。茨木の目論見が的中したのか、赤子は今度は吐き出すことなく体内に鬼の肉を取り込んでいく。


 そして鬼化が始まった。


 二体の鬼の肉片を食べ終えた赤子は肌の色を変えていく。顔の右半分が黒く染まり、左半分が白く染まる。それは身体の正中線を境に額から股間、そして足先にまで及んでいた。



「おお、まさかこんなにはっきりと白黒で分かれるとはな。角も縦並びに二本とはどこまでも変わっている」


「いいじゃないか。白と黒、何だかお前さんとあたしの子のようだ」


「ああ、後にも先にもこんな鬼の子は現れないだろうな。よし、鬼の子よ。貴様には夜叉丸の名を与えてやろう。異国で恐れられた鬼神の名だ」


 満足そうに酒呑が言うと、夜叉丸と名付けられた鬼の子はすっと立ち上がり、酒呑と茨木、鬼の双璧をその三白眼で睨むように見つめると口を軽やかに動かした。



「カンシャするぜ、オヤジ。夜叉丸……いい名じゃねぇか、気に入ったぜ。ヒトを滅ぼした鬼の名として、この国の歴史に刻みつけてやらぁ」


 異常なまでの生への執着を見せ、実の母親と鬼の肉を喰らい、生後間もなくにしていっぱしの鬼と変わらぬ知能と体力を与えられたこの赤子は、夜叉として鬼として、一体どんな成長を見せるのか。


 のちに鬼王子と呼ばれる鬼が、ここに奇妙な産声を上げた。



***



「クソチビィ。テメーはやけに目障りだぜ。すぐにゃ殺さねぇ。ケツの穴から臓物を、口の中から心臓を、目ん玉の中から脳みそをぶちまけて、泣き叫ぶことすら許さねぇ」


 黒目のほとんどない三白眼。それはあの日に見た酒呑童子と瓜二つ。ギルは本能で感じていた。この鬼は不倶戴天の敵。この場での殺し合いは避けられないと。



「目障りなのは俺も同じだ。その前に一つ聞かせろ。酒呑と茨木の子ってのはどういう意味? まさか、鬼も腹から子を産むなんて言わないよね?」


 いわれのない憎悪にも似た感情がギルの全身を覆っていた。


 瞬き一つも許されない緊迫感の中、夜叉丸は手前で跪礼きれいしたままの黄鬼の元へ歩いていくと、その俯いた頭を突然蹴り上げた。



「ああ!? どういう意味もねーだろうが! オレはオヤジと母さまから鬼の命を与えられたんだってんだよ! 意味わかんねーこと言ってっと殺すぞ!」


 夜叉丸の暴力は止まらない。黄鬼は痛みに耐えるように「ぐぅっ」と声を漏らすが、無抵抗のまま何度も何度も顔を踏みつけられ、ついにはピクリとも動かなくなった。


 汚いものを見るような目で黄鬼を見つめていた夜叉丸は、足元に転がる陥没した顔面に唾を吐く。


 ギルはその一部始終を黙って見つめていた。その顔を嫌悪に歪めながら。



「ああ、もう十分にわかったよ。俺はお前が死ぬほど大嫌いだって」


 背中からギルに言葉をかけられると、夜叉丸は悪魔のような笑みを浮かべながらゆっくりと振り向いた。



「気が合うじゃねぇか、クソチビィ。オレもよ、テメーは見た瞬間から生理的にまるで受け付けねぇ。オレたちゃ殺し合い上等ってことだよなぁ」


「チビはテメーだ、このイカれ野郎が! 確実にブチ殺す!」


 二人は同時に全力ダッシュ。初手は走り込んで放った互いの拳が互いの顔面にヒット。完全に相打ち。


 ギルは大きくのけ反り、たたらを踏むが、転倒を堪えると弾かれた顔を正面に向ける。



「オララララアァァァッ!!」


 そこへ夜叉丸の追撃。速射砲のような連打がギルの顔面に全ヒット。本能で顔面をガードするが、その瞬間、がら空きの腹に横蹴りを喰らう。



「ぐほっ……」

「ギルぅ!」


 駆け寄ろうとするクロベエをギルは手で制する。

 そこで攻撃が一旦止んだと見ると、ギルは腹を押さえながら、視線を上げて夜叉丸を睨みつけた。



「クソっ、アイツすげぇ戦い慣れしてんじゃん。何だろこれ。どうしようもないほどムカつく……」


 ほぼ同じ体格で同い年。

 しかし、第一ラウンドは大差をつけられてギルの完封負け。


 復讐リベンジを誓うギルの目には煌々とした赤い光が揺らめいていた。

 難敵との戦いはギルの中に眠る闘争本能を呼び覚ます。

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