第178話 土蜘蛛、見参!

 その少女、すいは貴族の手によって、茨木童子、そして兄である外道丸の目の前で無惨な死を遂げていた。


 しかし、死の直後。フッと魂が宙に舞い上がったその時、少女は願ってしまったのだ。


「どんな形でも構いません。あにさまと同じ世界に残してください」と。



 それはこの世への強い執着であり、無念の中に存在する未練。

 実直で一本気な兄を心配するあまり、無意識に心の奥底から零れた願望。


 その声を最も早く聞き届けたのは神ではなく、罪人の魂を統べる、とある邪神であった。



『……貴様は? そうか、あの男の妹か』


 禍々しく音割れの激しい、低く、くぐもった声だった。しかし、辺りを見渡しても姿はどこにも見えない。


 その声の主に対して、翠はすぐに「あの男?」と問い返した。


 邪神は『くっく』と笑い声を漏らすと先ほどよりもいくらか優しい調子で言い放った。



『ふん、まぁいいだろう。貴様は大罪人たる愚かな兄の代わりとして、この世の妖としてとなら生かしてやらんこともない』


「お待ちください! 兄さまが罪人とは一体? 誰かとお間違えではありませぬか? 我が兄はこの世の誰よりも優しき心を持った――」


『貴様の兄は先刻、人を捨て、鬼となった』


「……鬼? 兄さまが……まさか」


『オレは神だ。嘘は吐けぬ。貴様の兄、外道丸は鬼の中でも飛び抜けた妖力を持つ悪鬼、酒呑童子となったのだ。


 そしてヤツの身体にはあの大妖怪ヤマタノオロチの血が流れている。酒呑童子はいずれこの世に大いなる災いをもたらすだろう。


 それゆえだ。この世に未練を残す娘よ。貴様はその罪深き兄の代わりに人ならざる器にならば、その魂、この世に残すことができようぞ』


 翠は夢うつつの微睡みの中で遠鳴りのように聞こえるその言葉を必死の思いで反芻する。そして、思慮深く述懐した末に、



「わかり申した。よろしくお願いいたしまする」


 そう言って姿の見えない声に向かって、手を身体の前に重ねて深々と頭を下げた。


 邪神は翠の仕草、表情、そして、その短い言葉から感じ取れる悲哀を汲み取ると、微かに口角を上げ、ほくそ笑んだ。


(これは面白い被験体を手に入れたかもしれぬ。……その思いの先にある深淵。ぜひ見てみたいものだ)


 

 その一方で、翠は思う。


(たとえどんな妖や化け物に転移させられたとしても、兄さまと同じ時代に生きてさえいれば――があるはず)


 魂の行く先も分からぬままに、翠の意識は暗澹あんたんの闇の中へと堕ちていった。



***



すいッ! お前さん、その姿は……」


 元と合わせて八本の腕。そして憂いを帯びた美しい赤憧は強い光を放っている。



「あああう……」


 肩の上で揃えられた光沢のある黒髪は、その一本一本が意志を持ったように逆立ち、ゆらゆらと揺れていた。


 自身の戦闘形態に精神が追い付いていないのか、翠の口からは苦しそうな声が漏れている。


 じろきちは翠の変わり果てた姿をじっと見つめたあと、なぜか翠ではなく茨木の方へと宙を浮いて寄っていき、気さくに声を掛けた。



「のう、女の鬼。おヌシ茨木と呼ばれておったの。そうか、おヌシがあの茨木童子か」


「ん、あぁそうだ。それでお前さんは?」


「アチシは次郎左衛門常吉。じろきちでよい。今は故あって安倍晴明の使い魔をしておる」


「安倍晴明の使い魔? その姿、どう見てもその母、葛の葉くずのはにしか見えないけど」


「ぬぅ、さすがは長生きしとるだけはあるな。まぁ姿はそうじゃ。それよりおヌシ、何を知っておる? 先ほどあの者を『翠』と呼んでおったな」


 茨木はじろきちのオレンジの隈取に囲まれた金色の瞳を覗き込むと、静かに頷いてみせた。



「そうだよ。あの子は翠。酒呑がまだ人間だった頃の妹さ」


「なんと! よもや、そんな廻り合わせが起ころうとは……」


 驚きを隠せないじろきちは、矢継ぎ早に茨木に質問を繰り返した。茨木もまた問い返す。そうして二人は手持ちの情報を共有したのだった。



「――そういうことか。翠は人の頃の記憶がほとんどないんだね」


「あぁ、転移・転生の仕組みと言うのはアチシにもさっぱりじゃ。ある者は前世の記憶を丸々引き継いでいるかと思えば、翠のようにその逆もおる」


「でも、あたしのことは覚えていてくれたよね?」


「確かに。ならば、酒呑童子めのことも――」


「いや、翠は酒呑には会ったことがない。ヤツがまだ人間だった頃に翠は殺されたんだ」


「そうか……。ただ、いずれにせよ、あの者が外に出て己の力を役立てたいと申してくれたのじゃ。世に聞こえし土蜘蛛の力。見せてもらおうかの」


 じろきちが言うと、茨木も倣って視線を眼下に落とした。翠と青鬼たちの睨み合いが続く中、先に仕掛けたのは青鬼側。


 先走った一体の青鬼が、一間いっけんはあろうかという金棒を翠に目がけて振り下ろしてきた。


 翠は下から一本の細腕で金棒を受け止めると、残りの七本の腕が伸びて青鬼の四方八方から拳を叩き込み、一瞬のうちに蜂の巣にしてみせた。



「ぜ、全員でかかれぇーっ!」


 一瞬怯んだ青鬼たちだが、人型の童女相手に後れを取るものかと、総攻撃を仕掛けてくる。


 翠は真上に飛び上がって交わすと、口から眼下の鬼たちに向けて粘度の高い、雪のような白い糸を吐き出した。


 糸は空中でパッと広がると蜘蛛の巣を形成し、それは投網のように青鬼たちに覆いかぶさる。翠は間髪入れずに、体の正面で八本の手を対の掌で合わせると、上の手から順に体の外側に円を描くように回していく。



「参ります! 妖術……土石決壊クラッグフォールッ!」


 翠が再び正面で八本の手をパンッと合わせると、そこから生み出された大小さまざまな石や岩が真下にいる青鬼たちに容赦なく降り注いでいく。



「ぐぅ……はぁ」


 岩の下敷きとなった最後の一体と思われる青鬼の呻き声が消えると、翠は床にひたっと舞い降りた。


 その瞬間を待っていたかのように、蜘蛛の巣を逃れた青鬼たちがすかさず反撃に出る。


 数に物を言わせて同士討ちも辞さない覚悟で金棒を振り回す青鬼の攻撃が翠の後頭部やこめかみ、背中や肩などに直撃すると、その度に翠はよろけ、たたらを踏んだ。


 茨木が慌てて加勢に向かおうとすると、じろきちがさっと手で制する。



「なぜ止めるの!?」


「茨木ちゃんよ。あの子はおヌシの知る翠であって翠ではないぞ。土蜘蛛の力を見くびるでない。それにアチシは気が済むまでやらせてやりたいんじゃよ。今まで穴ぐらの中で一人で過ごしてきたあの子は今、誰かに必要とされて自分の意志で戦っているのじゃから」


 言われて茨木は翠の顔を見る。あんなに懸命な顔、悔しそうな顔、そして真剣な顔をするんだ。


 そのどれもが茨木が見たことがない表情だった。


 翠と青鬼たちの戦いはしばらく続いたが、自力で勝る翠が青鬼の数を徐々に減らし、最後の一体の喉元を細く伸びる腕が貫くと、鬼は声をあげることもできずに膝から床に崩れ落ちた。


 終わってみればそれはあまりにも一方的な滅殺。力の差は歴然であった。



「おヌシ、翠! ようやった。アチシの出る幕なんてどこにもなかったぞ」


「ほんと。助かったよ、翠」


 二人が宙から駆け寄ってくる。しかし、翠の表情は浮かないままだった。腕を振って血を払うと、か細い声で呟いた。



「ハァハァ……やはりわたくしは戦いは好きではありませぬ」


 赤い瞳から漏れる光が徐々に小さくなっていく。自分の仕事を終えた翠はそれでもどこか満足げな表情にも見えて、茨木は妹が成長を遂げた姿を目の当たりにしたような気分になって、そのおかっぱ頭を無意識に撫でていた。


 茨木たちのいる東翼の間には数十体の青鬼の亡骸と、むせ返るような血の匂いが充満している。


 もうここには用はない。茨木は奥の扉に目を向けた。



「あの扉の先に長廊下がある。そこを通れば二階へ行けるんだ。こんなところに長居は無用。すぐに行こう」


 茨木が促し、三人で扉に向かっていると、突然扉が勝手に開いた。


 思わず立ち止まる三人。すると、扉から現れた女の耳に突き刺さるような、けたたましい声がこちらに向けられた。



「ようやっとみぃつけたでぇ、茨木ぃ。今度は逃がさへんからなぁ」


 そこに立っていたのは、茨木が追放したはずの鬼。

 桃色の艶やかな女形の鬼、金熊童子と、その後ろにボディガードのように控える鬼の中でもひと際体の大きい、岩のような肌をした虎熊童子。


 大江山四天王のツートップが三人の行く手に立ち塞がる。

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