第49話 【サキソマ編 弍】失ったもの

 季節は夏から秋、そして冬へと変わる。

 

 サキソマは十一歳になっていた。気温が下がってもサキソマはいつものように川へと行くが、ある日突然ぱったりとレイリオとウルマーが姿をみせなくなった。


(もう寒くなってきたから今日は来なかったのかな)と思い、気に留めないようにしていたのだが、二日経っても一週間が過ぎても二人が現れなかったため、不安に駆られて彼らの家に行ってみることにした。


 庭先から中を覗くと、レイリオとウルマーがボールで遊んでいた。サキソマは衝動的に、「レイリオ! ウルマー!」と声を掛ける。


 サキソマに驚いた二人は顔を見合わせると、少しの時間をおいて庭先の門までやってきた。二人に久しぶりに会えた嬉しさが自然と込み上げてくる。



「やっと会えた。どうしたの二人とも。寒いから川にはもう来ないの?」


 レイリオとウルマーは再び顔を見合わせる。困惑の表情を浮かべてウルマーが言う。



「お前のお母さんは娼婦なのか?」


 サキソマはその言葉に首を傾げた。



「しょうふ? 何それ?」


 サキソマの問いにウルマーが答える。



「娼婦って言うのは、楽して稼ぐ悪い女の人だってうちの親が言ってた。だから、もうお前とは遊んじゃダメだって」


 頭を鈍器で殴られたような強烈な衝撃がサキソマを襲う。



(え? なんでお母さんが悪く言われているのだろう。なんでもう遊べなくなるのだろう。ウルマーは一体何を言って……)


「娼婦じゃない、お母さんは悪い人なんかじゃない! 知らないくせに勝手なことを言うな!」


 サキソマは頭の整理が追い付かず、ウルマーに掴みかかって怒りをぶつけた。すると、レイリオが手に持っていたボールをサキソマの横顔にぶつけて声を荒げる。



「突然やってきて何するのよ! お兄ちゃんをいじめないで!」


 人に拒絶される感覚。何を言っても聞き入れてもらえない。(あぁ、そうだ、僕はいつもこんなんだったっけ……)と思う。力なく、ウルマーの襟から手を放し、項垂うなだれながら二人の家を後にする。


 帰り道。サキソマは悔しさと悲しみの感情を抑えることができずに、ずっと大声で泣いていた。嗚咽がひどくなってきて止まらなくなったので、ただひたすらに家の近くで一人でずっと泣いていた。


 すっかり日も落ちた夕暮れ時。ようやく嗚咽がおさまると憂鬱な気分のまま玄関の扉を開けた。



「お帰りなさい。今日は遅かったのね。あら、サキソマ、あなた泣いているの……」


 すぐに母親が玄関に出向いてきてきたが、サキソマの泣き腫らした顔を見て心配そうに声を掛けてきた。サキソマは手で涙を拭う。



「……お母さん、あのね、お母さんは娼婦じゃないよね?」


「え? あ、え……だ、誰が、そんな……?」


 母親はそう絞り出すだけで精一杯だった。他にその場を取り繕う適切な言葉を見つけることができない。娼婦と言われればその通りだと思ってしまったからだ。


 母親はサキソマにご飯を食べさせるため、父親に金を渡すため、街で男たちに声を掛けては体を売って、その見返りにわずかなお金を受け取り、そのお金で帰りに食材を買ってきては毎日食事を作っていた。



「ねぇお母さん!」


 サキソマは声を荒げる。母親は両手で顔を覆い嗚咽おえつを漏らす。どうしてだろう。理由はわからないがサキソマは胸が締め付けられる思いに駆られた。


 その時、サキソマは突然髪の毛を後ろから掴まれ強い力で振り回された。



「テメェ、クソガキ! こんなところに突っ立ってんじゃねぇぞ、邪魔くせーな」


 驚き、振り向くとそこには父親がいた。恐怖で言葉が出てこない。声にならず「ああ……」と小刻みに声が漏れると、その様子に苛立った父親がさらに声を張り上げる。



「聞いてんのかテメェは、あぁ!?」


 父親はサキソマを思い切りビンタで振りぬくと、続けざまに腹に膝蹴りを入れた。



「ぼ……はぁ」


 鳩尾みぞおちに強い衝撃を受けたサキソマは呼吸ができなくなり、その場で腹を抑えて倒れこんだ。


「サキソマー!」と遠音とおねのようにうっすらと母親の声が聞こえてくるが、意識が朦朧もうろうとしていて夢か現実かの区別もつかない。父親の行動を腹に据えかねたのか、普段は感情を表に出さない母親が声を上げる。



「もうやめてください! こんなの、こんなの家族じゃない!」


「何だぁ? 文句があるならテメェも同じ目に遭わせてやろうか」


 その言葉に母親はとっさに腹を手でかばって父親を睨みつける。父親はその行動に違和感を覚えたようだった。



「おい、クソアマ。その腹、まさか……」


 母親は、ハッと我に返った表情を浮かべると、父親に言う。



「そうよ……子供が、できたの。だからあなたもこれからはちゃんと――」


 母親の言葉を最後まで聞くことなく、父親は母親を拳で殴りつけた。その衝撃で壁にぶつかり崩れ落ちる母親の髪の毛を掴み、顔を自分の目の前まで引きずり上げて父親が声を張り上げる。



「ざけんじゃねぇぞ、俺が父親のワケがねーだろ! テメェ、一体誰と何人とやってやがった!? 噂くらい耳に届いているんだよ。この売女ばいたが!」


 口元から流れる血を手で拭い、目に涙を浮かべて母親が喚いた。



「くっ……誰のせいだと思っているの!? あなたさえちゃんと働いてくれていたらこんなことにはなっていないのよ!」


「はぁ? 俺のせいだってのか? テメェがアバズレの淫乱ってだけじゃねぇか! ナメたこと抜かしやがって、殺してやる!」


 父親は激昂すると、母親の髪の毛を鷲掴んだまま、居間へと引きずっていく。



「やめてぇーーっ!」


 母親の絶叫がサキソマの耳に届いた。ぼんやりと意識を取り戻したサキソマはふらつきながらも何とか立ち上がり、居間の方に歩いていく。


 母親の悲鳴は絶え間なく続いていて、その恐怖に満ちた声を耳にする度に心臓が押し潰されそうになる。

 

 居間を覗くと、父親が母親を投げ飛ばしたり、顔を蹴り上げたりしていて、酷い暴力を振るっていた。さっきまでは抵抗していた母親から次第に声が失われていく。目を覆いたくなるような現実を目の前にしてサキソマは思う。



(あぁそうか。もう全てが、とっくに終わっていたんだ――)



 今までピンと張りつめていた糸が突然プツッと切れた気がした。


 頭の中に真っ黒なもやが入り込んできて、サキソマに残されていた理性を一気に飲み込んでいく。それは、抑え込んでいたもの全てから解放されるような素晴らしい感覚だった。


 サキソマは台所に行って刃物を手にすると、馬乗りで母親を殴っている父親の背後から、柄を逆さに持って脳天に向かって力の限り振り下ろす。すると、父親は声を上げる間もなく、静かに横に倒れた。


「はぁー、どうして今までこうしなかったんだろ。元はと言えば全部テメーのせいじゃねぇか。殺す殺す殺す殺すゥゥゥゥ!」


 何かに憑り付かれたかのように叫び続けながら、白目を剥いて横たわっている父親の首筋に再び刃物を振り下ろす。


 刃を力の限り叩きつけ、食い込み、肉の弾力に押し返されながらも、刃先を無理やり中で押し斬る感覚が心地よかった。


 二度、三度と繰り返し、四度目を振り下ろそうとした時に、母親が身体をぶつけて止めに入る。



「何をやっているのサキソマァァッ!! あぁ、どうしてこんな……」


 母親は顔から殴打による激しい出血を伴いながらも力を振り絞って立ち上がり、サキソマを強く抱きしめた。


 しばらく黙って抱きしめられたままだったが、(俺がして欲しいのはこれじゃない)と思い、手に持っていた刃物で母親の腹を深く突き刺す。



「……サキソ……マ……どうし……て」


 母親は膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れて口から血の塊を吐き出した。サキソマは母親の頭を持って無理やり上半身を起こすと、彼女の右手を掴んで自分の頭に持っていく。そして、その手を動かし、頭を撫でているような仕草をさせる。



「俺はいつもこうして欲しかったんだよ」


 その行動はしばらく続いたが、サキソマは突然「もういいや」と言って母親を足で気怠けだるそうに突き放す。母親はすでに絶命していた。


 それからすぐに、両親の亡骸が横たわる部屋でサキソマは疲れを感じて眠りに落ちた。


 その時から夢を見ることはただの一度もなくなった。

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