第274話 エステルの場合 前編

「それじゃ~しばらくはおとなしくしてるよ~にな!」


「なんかあったら婆ちゃんもいるし、なんならちょっと声出せばおれがすぐに飛んでくるからね」


「うんっ! ありがとっ!」


 グレッグとセキが部屋の扉を静かに閉めた。


 ここはマハの家。正確に言えば寝室である。

 エステルは足の治療があるため、診てもらったついでにここで寝泊まりをするようマハに告げられていたのだ。


「とは言ってもせっかく東側に来たんだから何か……迷惑がかからない範囲でできることを……」


 ほんの少し前には考えられないほどにエステルは心が落ち着いていた。

 あの大断崖での出来事が夢だったのではないかと思えるほどに、このコト村の周辺は落ち着きと安らぎに満ちているのだ。


 だが、寝台ベッドに腰かける自分の足元に視線を移せば、すぐに現実を直視することは可能だ。

 事実エステルは今、杖をついた状態でなければ歩けないほどの傷を抱えているのだから。


「鍵は閉まってない……というか鍵じたいがないから動けるはず……」


 父の墓参りは傷が癒えた後に元気な姿で、ということになっている以上、おとなしくしているべきではあるが。


「ん~……色々素材はあるんだよね……ならありがとうの意味を込めてお菓子でも作って……――うん」


 村や周辺を探索したい衝動に駆られつつも、エステルが出した結論は極力動きを抑えたモノに落ち着いた。


「よし……そうと決まれば……!」


 徽杖バトンを付きながら部屋の入口へと向かう。

 そこでちょうど書物を数冊抱えたマハが部屋に顔を覗かせていた。


「……あ、あの良かったらなんですけど――」


「退屈だろうからねぇ……この村にある書物を持ってきたのよぉ~……そんなに量があるわけじゃないんだけどねぇ……」


 マハの言葉に思わず八重歯を覗かせたエステル。

 だが、お礼も兼ねたお菓子もかろうじて頭の片隅に留めることに成功していた。


「――え! ありがとうございます! 読みたいです! あと……あのキッチンとかって使わせてもらってもいいですか? お礼にお菓子とかを作ってみようかと……」


 気性的におとなしくしていることが難しいだろう、という考えの元、セキがマハに頼んでいたのだ。


「あらぁ……それはうれしいねぇ……材料が分からないけど、キッチンにあるものと外に置いてあるものはなんでも使っていいわよぉ~」 


 寝台ベッドの脇に書物を積むとマハは部屋を後にする。


「おぉ……! 色んな? 本がある……!」


 だが、この村はセキが共通語ペランを不得意とすることからも察するように、村もしくは東側地域特有の文字を利用している。

 表紙からしても、共通語ペランとは異なる文字が記されているが、


「知らない文字だ……! セキとかなら分かるのかな? ……いや! ここは内容と照らし合わせながら文字も一緒に解読していってみよう……! 書くモノ書くモノ……」


 その程度でエステルの知識欲を削げるわけはなかった。

 その後、部屋からは書物をめくる音と何かを記す音だけが響き渡ることとなる。


 夕食時に顔を合わせるも解読に思考を割いており、料理が出されればあっという間に食べ終え部屋に戻る、という療養という意味では理想通りである。


 唯一の誤算と言えば翌日にエステルが解読兼、読破を済ませてしまうということだけであった。

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