第256話 崖底のエステル

(大丈夫……大丈夫……――まだわたしは頑張れる……!)


 エステルは加速する落下の中で意識を保つべく、己を鼓舞するための言葉を反芻する。


 すでに落下を初めて数十秒が過ぎている。

 これだけの時間落下できるというこの大断崖の深さを意識すればたちまち心が闇に飲まれることを理解しているからこその処置でもあった。


(振り切れた魔獣もいるけど、追いかけてくる魔獣に釣られてどんどん数が……)


 肩越しに背後を見れば飛翔系の魔獣が群れを成して襲い来る光景が広がっている。

 落ちれば落ちるほどに生還の確率が下がることは承知している。


 それでも彼女はこの崖が途切れることを願うわけにはいかないのだ。

 落下の直前に星の力で着地したとしてもあの群れ――どころか、あの中の一匹だけでも倒す力はない。


(あれは『鬼蜻獣グルヤンマ』、あっちは『茜蜻獣ゴルアキア』……今のわたしじゃ太刀打ちどころの相手じゃない……!)


 共に『千獣』に分類される魔獣である。

 博識であるがゆえに、今自分が置かれている状況を正確に把握できてしまう。

 そのことが、恐怖を増長する結果を招くとは彼女にとっても想定外であった。


(考えろ……! 諦めるな……! みんなを……セキを信じるんだ! 絶対来てくれる……! だからそれまで逃げ切るんだ……!)


 歯を食いしばりながら思考に全てを費やす。

 空中に身を隠す場所などあるはずもない。

 落下の速度を緩めればたちまち追いつかれる。

 

 考えては振り払い。

 考えては歯を軋ませる。


(着地の直前しかない――海や川なら潜れる。林や森なら少しでも木々の密集地へ……――ただの草原だったら崖の壁を繰り抜いて……)


 手段が限られている以上、エステルは身を隠すこと。という一点に意識を集約させた。

 それが許されるほど相手が鈍いかは別として――だ。


 そして眼下に写り込んだ崖下の地は、精選時の忘れられた地よりもさらに深い緑を宿した『森』であった。


(森だ! 木々が……すごい……あんなに大きく育つのって環境? それとも崖下だから……? ううん! そんなことは今はいい! 森なら少しでも深いところを――)


 エステルがサテラを展開しながら広大な森を見回した時、あるものに気が付いた。

 それは徐々に大きくなり――


「なん……――で!? 〈引月ルナベル〉――ッ!」


 エステルは自身を『横』へ引き寄せた。

 直後に眼前を通り過ぎる巨大な岩。


「下にも……いる……?」


 眼前を通り過ぎた岩は、エステルの背後に迫っていた魔獣たちをいとも容易く圧し潰していく。

 千獣と称する魔獣たちは易々と旋回で回避するも、旋回後にエステルを追う素振りを見せることなく、空へ上がっていった。


「空の魔獣が……――え!? 何が!?」


 魔獣の姿を目視しようと空中で止まった拍子に、森の至る箇所から『魔法』が放たれる。

 触れれば骨すら残らないであろう業火。

 一つ一つがエステルを容易に圧し潰す巨岩。

 抉りぬくように螺旋を描く水の突起。


「ここじゃいい的になる――ッ!!」


 詩を解除し自由落下を再開したエステルの頭上を次々に魔法が通り過ぎていく。

 自分自身が対象でなければさぞかし圧巻の光景だろう、そんな想いが彼女の脳裏を掠めた。


 そして――


 エステルは地獄と呼ぶに相応しい崖下の地へと降り立った。

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