第195話 かつてテノンと呼ばれた獣

「オレだッ! グレッグ……――グレイだよ!! ほんとに……――ほんとにもう理性を……意思を失っちまったのかよッ!!」


 峡谷の底に流れる激流。

 その激しい音さえも切り裂く悲痛な叫びがこだまする。

 さらに叫ぶ当種とうにんの鎧は真新しい傷跡で埋め尽くされ、至る箇所が破損していた。

 黒地の内着インナーはたっぷりと血を吸い込み体に纏わりついているが、そんなことに気を向けている余裕は一切なく。

 唯一傷の見受けられない箇所は、グレッグが纏った額から目元までを覆う片角付きの半仮面マスクだけであった。


「――グ……グァッ……グアァアァアアアアッ!!!」


 相対する者はまだひとと呼ぶことが相応しいのか、いささか疑問に感じる風貌であった。

 薄茶色であったであろう髪は付着した汚れで黒ずみが目立ち。

 汚れに見合った髪は癖毛であるが、肩まで伸びている。

 軽鎧ライトアーマーたぐいを付けていたことが想像できるが、内着インナーどころか、すでに肌が剥き出しの部分のほうが多い。

 口元に見え隠れする歯はすでに八重歯とは言い表しづらく、牙と呼ぶにふさわしい長さだ。


 左手の爪は、下手な武器よりも輝きと禍々しい鋭さを見た目から醸し出しているが、さらに目を引く特徴が右手の爪にあった。

 内の三本は左手と同様の鋭さであるが、親指と小指の爪が突出して伸び、強靭さに拍車がかかっているのだ。

 すでに爪というよりも牙に近い丸みさえも持ち合わせている。


 そして。

 内着インナーに覆われた胸部が、脈を打っているかのように蠢いていることが伺えた。



「テノンッ!! 思い出してくれ!! 必死でクエストをした日々を! 倒せなくて逃げ回った日々を! 共に……夢を語り合った日々を!」


「グァアアア――ッ!!!」


 グレッグの問い掛けに対する答えは言葉でなく行動で示された。

 けたたましい叫びと共に地を蹴ったその足がグレッグ目掛けて振り抜かれた。


「ぐ――ッ!! お前の意思はそんなヤワじゃねーだろ!!」


 両腕に携えた盾で受けるも体ごと持っていかれるほどの衝撃。

 しかし飛ばされた先で両足に力を込め態勢を整える。

 無防備に受ければ致命傷となることを十分に理解している以上、テノンから目を離すことはなかった。


(分かってる……分かってんだよ!! でも……それでも――)


 追撃をかけるべく両手を地についた前傾の姿勢は、かつての面影を見ることが叶わぬほどに獣の気配を色濃く漂わせていた。

 さらに垂れ流す魔力は魔力感知に疎いグレッグでもはっきりと感じ取れるほどに濃く。周辺に徘徊する魔獣とは比べるまでもない。


「散々お前の特訓に付き合って、根気は鍛えてあんだからな……簡単にオレが音を上げるわけがねーだろう!」


 真向から見据えるグレッグを前傾姿勢のままに見上げるテノン。

 歯茎まで剥き出しに唸るものの機を伺っているのか、飛び込んでくる気配が感じられなかった。


「グ……グゥ……グオァ――ッ!」


 片手で胸元を搔きむしる。

 その姿につい、駆け寄るか迷いが生まれた時。

 

 突如、弾けるように飛び出したテノンがグレッグへその右手を振るった。


「テノ……――ぐおっ!!」


 盾を掠めてなお、右肩を深々と抉り取られた衝撃に右手の盾が手を離れ、渇いた音を立てながら回転しつつ宙を舞った。


(や……べえ――ッ!!)


 グレッグは残った左腕の盾を胸元に引き寄せながら振り向く。

 ――が、そこのテノンの姿はない。


 思考が凍りかけた時、微かに捉えた土埃。

 反射的に顔を上げた時、グレッグの瞳は爪を横薙ぎに振るうテノンの姿を映し出した。


(――ッ!!)


 瞼を下ろすこともできない刹那の刻。

 自身の顔を抉り抜くであろう爪を見つめ続けるしかなかった。


「〈引月ルナベル〉――ッ!!」


「〈下位炎魔術ファルス〉ッ!!」


 だが、背後から響いた詩に体は引き寄せられていく。

 テノンはグレッグに向けていた手を止め、強靭さを誇る爪で火弾を弾いたと同時に距離をとった。


 仰向けで引きずられたグレッグが自身を見下ろす三つの影を見上げた。


「お前ら……どうして……?」


 すると。


「それはこっちの台詞セリフだよ! 約束してたのに……行くなら行くで声を掛けてくれれば……!」


「問答している時間は与えてくれないようですよ……――〈弓の下位風魔術アルクス・カルス〉」


「そういうパーティを蔑ろにする行動は痛い目を見ますよ。と言いたかったのですが……すでに味わっているようなので……〈再生の緋炎よ 祝福と成れ〉」


 彼女たちは当然のようにテノンの前に立ちはだかる。

 そこへグレッグが言葉に詰まりつつも立ち上がり、並び立つ姿に違和感は見出すことができない。

 それはまるで長年連れ添ったパーティのように自然と馴染んでいた。

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