第186話 休息日のエステル その12

「そういうこと……だったのか……ありがとう。ほんとに……本当にありがとう……――ッ!!」


 ユエリの父、『タータス』がエステルの両手を包み込むように握りしめていた。

 タータスはユエリのように口から覗く牙や強靭な爪を有しているわけではない。

 その巨躯に見合った頑強な手。

 硬いだけではない流動的な筋肉。

 それはまるで大猩猩のようであり、包み込まれたエステルの両手と対比するに赤ん坊とおとなのような差が目に見えた。


「コホッ……コフッ……。でも……私のためにエステルさんあなたの……」


 峠を越えたものの、未だ顔色の優れないユエリの母、『クユナ』は再度、横になったまま顔を向けた。


「――いえっ! それはいいんです! 何より……間に合ってほんとによかった……」


 クユナの声を少々強引に遮るように声を被せた。

 、迷いなく決めたからこそ今の結果がある、とエステルは自身を誇ることができた。

 すでにタータスからも何度も……何度も真摯にお礼を積み上げてもらい、エステルも真向から受けた以上、お礼、という話はここまで、というのがエステルの考えでもあった。

 気恥ずかしい、という思いも少なからずあるだろうが。


 クユナは既に死を覚悟していた。

 エステルが幻域の入口で見た草木が意図的に集められた場所の奥。

 そこに発症後に少しでも進行を抑えるため、療養向けに建てた小屋が存在していたのだと言う。

 だが、いよいよ末期状態となった時、クユナは外ではなく、自身が愛する子を育てた家で最後を迎えることを望んでいたのだ。


「千幻樹の果実を食した以上、肉体魔力アトラが増幅されているので、ここでも大丈夫だとは思いますが……大事をとるなら改めて外の小屋で療養することを勧めますよ」


 イースレスが腰に付けていた布袋をユエリに差し出した。


「これ……は……?」


「現域――私たちの住む世界には魔具というものがある」


 ユエリが袋から取り出した物は、木作りの印章であった。

 印として刻まれている詩は共通語ペランではないのか、エステルには一目で意味を解読することはできなかった。


「あ、ああ。それくらいは知っているが……」


「それは護持印ごじいんというものだ。簡単に言えば押して印を付けたものを長期に渡って状態を保持することができる。木に押せば耐火、耐水、そして朽ちる時間がかなり伸びることになる。だから……外の療養所を利用するなら役に立つだろう。石造りでも有効……だが、土造りにも有効かは試してみてくれ……」


(あれって……レルヴでもお店の外に刻まれてたものかな……?)


 イースレスの気遣いにユエリとタータスが共に黙って頭を下げた。


「エステル。イースレス何から何まで……感謝している。母もまだ体調は戻っていないが……明らかに回復へ向かっていることが分かる」


「俺……からも礼を尽くさせてほしい。今度ばかりはもう……諦めていたからな……そしてきみ自身の完治と引き換えに妻の命を救ってくれたこと……俺は決して……――忘れない……何があろうとも……――だ」


 状況から回復に向かったことはユエリの中で、計り知れないほどの安堵をもたらしているのだろう。

 そして最愛の妻の最後でもおかしくなかった状況である以上、夫であるタータスの気持ちも同等、下手すればそれ以上であることは言うまでもなかった。


「私は特に何をしたわけではない。だから、その気持ちはエステル様へ向けてくれればいい」


「い、いえっ! わたしだってたまたま見つけただけなので……」


 急場を凌いだことから大きな脱力感に包まれているエステル。

 しかし、その瞳はやり遂げたという気持ちで満たされているのか、輝きは増すばかりであった。


「ああ。千年に一度の好機チャンスを母のために使ってくれた以上、エステル。お前には返しきれないほどの借り……いや、恩ができた」


 エステルの前に赴き腰を下ろす。

 雰囲気に当てられたのか、エステルもそそくさと姿勢を正し、ユエリと向き合うと互いの視線が交差した。


 ユエリは呼吸を整えるように大きく息を吸った。


「だから……オレは今日この場より……――エステル……お前の『牙』となろう。共に過ごした時間など関係ない……いや、僅かとも呼べない時間で……あんな出会い方をしてもなお、信用してくれたお前だからこそだ……!」


 さらにユエリは硬く握りしめた拳を床に力強く突き刺した。


「お前の進む道がどれだけ険しかろうとも……誰が立ち塞がろうとも……――オレの牙で……――全てを噛み砕こう」

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