第178話 休息日のエステル その4

 胸の内から弾けるほどの動悸。

 無意識のうちに口から零れる荒い息。

 エステルは瞼を全力で閉じ呼吸を整えることに注力した。


(落ち着けっ! わたしの胸落ち着け……! みんなに――ううん……違う)


 力一杯に閉じていた瞳を開いた時、エステルの呼吸は自然と納まりを見せつつあった。


(自慢したり見せびらかすものじゃないっ。この場で食べて……後でみんなに報告をするんだ!)


 胸で抱え込む果実に目を落とす。

 先ほどまでの眩い光は収まっているが、果実自身を薄っすらと包み込む淡い光は脈打つように明滅を繰り返す。

 その光を見ているだけで、エステルの胸の内から胎動のようなものが込み上げてくることを明確に感じ取った。


(よし……食べる……! もう食べちゃうぞっ!!)


 エステルが意気込んで果実を握り直した時。

 広場を囲む茂みが騒めいた。


「待ってくれないか」


 反射的に向けたエステルの目に写り込んだ種影ひとかげ

 その影は臆することなく茂みを抜け、広場にその姿を現した。

 果実の淡い光と夜光石に照らされた男の姿は一見、適受種ヒューマンのように見えた。


 体躯はグレッグほどであり、適受種ヒューマンとしては背は高いが、引き締まった筋肉の影響か線はやや細く見えた。

 身に纏う衣類は革と呼ぶのを躊躇う程度に作りは荒い。自身で狩った獲物の皮を利用しているのかは定かではない。

 一見無造作なやや青みがかった、水色に近い色の髪。

 前髪は目に掛からないほどではあるが、襟足は長い。

 

 エステルは片時も相手から目を離すことなく後退りすると、片手で徽杖バトンを握りしめた。

 この状況で声をかけられた以上、目的は一つである。


「目的はたしかにきみが思う通りだろう。でも無理にとは言わない、だから話を……話を聞いてほしい……」


 両手の平を見せ敵意の有無を示しているが、エステルの目が引きつけられたのは指先から真っすぐに伸びた獣の如き爪だ。

 全身を漠然と見た後によくよく見れば、一歩、また一歩とゆっくり歩みを進める素足、こちらの爪も容易に自分を切り裂けることは一目瞭然であった。


 だが、近づくに連れ相手の瞳をはっきりと見つめた時、エステルは自然と後退りを止めていた。

 威圧のたぐいを発することはなくとも、明らかに自分よりも強者であることが伺えるにも関わらず。


「きみが千幻樹の果実の獲得者ということはもう事実だ。それを承知で頼みたい」


 男はエステルが向けた視線を真向から受け止め、互いの視線が交差する。

 そこでなお、男が一歩を踏み込もうとした時。


「――そこで止まれ」


 エステルの背後から目の前の男とはまたが響いた。


 エステルが振り向こうとした直後に一筋の煌めきを見た。

 その煌めきが目前の男の足元に突き刺さり、動きを止めるまで、エステルはそれが『剣』と認識することができなかった。


「果実の獲得者は彼女。それでこの千幻樹の騒動は終焉だ。それ以上も……それ以下もない――〈燎原の火炎よ 祝福と成れ〉」


 議論の隙間を許さぬという確固たる意志の元に紡がれた降霊詩。


(――え!? なに? どういうこと? この降霊詩は……『四大の炎魔イグリット』――ッ!?)


 からからに干上がりつつある喉へ唾を流し、錆び付いた歯車の如くぎこちなく首を背後へ向けた。


 そこに肩で風を切り歩く男と、背後に顕現する炎の精霊が居た。


(ふえええっ!? なんで? ど――どうしてイースレスさんが!!)


 プリフィック王国。天空ヴァナシエロ騎士団第二軍を実質的にまとめる男は悠然と歩みを進める。


 イースレスは唖然と見つめるエステルと目が合うと、その凛々しさと強靭な意思のこもった瞳を朗らかに緩ませていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る