第84話 禍の獣

 怪触蛸獣クラーケン

 ギルドの等級で『禍獣』に分類される魔獣である。


 神話と伝承に住む獣『極獣』。

 恐怖を具現化した獣『恐獣』。

 そして、その獣たちに次ぐ禍をもたらす獣『禍獣』。


 南大陸バルバトスで活動する探求士の最高位『開花アペル級』が万全のパーティで挑むべき魔獣である。


「大きすぎますわっ!! わたくしの拘束で――」


 ナディアが星の力を行使するために、振り返った時。


「ばっ――ダメだ! 離れろッ!!」


 ジャワが振り向いた直後のナディアの胸を両手で無理やり突き飛ばす。かなり強引であり、ナディアの足が宙を舞い背中から地に落ちた。


「なっ! 何を――今は少しでも時間を――」


 ナディアは急いで上半身を起こしながら視線を上げジャワを睨んだはずが、その瞳が交差することはなかった。

 ナディアの視線が地に移った時、触手の振り抜きにより下半身を吹き飛ばされたジャワの姿を捉える。


「い……行け……はやく――早く行けッ!!」


 引き千切れた胴から桃色の臓器と赤黒い血を垂れ流しながら、ナディアへ意思を伝え続けるジャワ。

 ナディアは上半身を起こした勢いを忘れたのか、その姿に愕然の瞳を向け、現実味のない光景を確かめるように震える手を伸ばした。


「――あっ……う……そ……」


 立ち上がる気配を感じさせないナディアに苛立ちさえ覚えたジャワは伸ばした手を払いのけ、


「その足で駆けるんだよッ!! 悪いな……誓ったばかりなのに――でも、託し――」


 視線を交え最後の言葉を紡ぐ途中にも関わらず、エステルの詩により引き寄せられたナディア。

 必死で手を伸ばした先で微笑んだジャワが、同じく伸ばした手を眼前で力強く握りしめた時、その身に極大の触手が振り下ろされた。


「ジャワ――……くそッ! 走れッ!! 脇道が見えない以上、足が千切れても止まるんじゃないッ!!」


 感傷に浸る隙間など毛の先ほどもない。ドライの叫び声がこだまする中、すでに全員がジャワの最後の姿に背をむけ、暗闇の先へと疾走を始めていた。


「う――ぐっ……うぅ――ッ!! その巨体なら恰好の的ってこと教えてあげますわっ!!」


 だが、その死をまさに眼前で迎えたナディア。

 逃げるだけではその身を賭して自身を庇ってくれたジャワに顔向けができない。

 ナディアの昂ぶりに二つの星が呼応するかのように輝きだす。


「〈二星連結ヴィーメルリエゾン〉……――〈星間拘束メルトリクション〉――――ッ!!」


 煌々と輝いた二つの星が魔力の帯で繋がる。

 その帯で怪触蛸獣クラーケンを巻き付け動きを封じるべく、ナディアが星を操った。

 倒せずとも動きを封じれば、少なくとも逃走に費やす時間を稼げるという思考のもと、ナディアの動きに合わせて、エステルもサテラの引力による触手の引き留めを狙った。


「そんな触手がいくらあろうとも――ッ!!」

「――〈引月ルナベル〉! 触手くらい――ッ!!」


 しかし、振り上げられた触手に帯が巻き付くことすらできず、引き千切られると同時に別の触手により、二つの星々が弾き飛ばされる。

 エステルのサテラも発生させた引力などないもののように、触手によって地に叩きつけられていた。


『ヴゥゥゥ……――ヴォオオオオオオ――――――ッ!!!!!』


 逃走時間どころか、怪触蛸獣クラーケンの進行はわずかたりとも止まることはなく、獲物を前にした歓喜なのか、それとも目障りとした怒号なのか、理解する気を一切起こさせない咆哮が大空洞内の空気を怯えさせた。


「ぐぅ――ッ!! それなら岩を引き寄せて――」


「ダメですわ! 貴女の扱う『サテラ』が他の星と一緒かわかりません。そして、魔力によるダメージで星が壊れることはありませんわ。――でも、ダメージで顕現する魔力を失った以上、時間を置かないと魔術は行使できませんの!」


 ナディアの徽章術への理解は勤勉なエステルが、その後ろ姿を見据えることができないほどに深い。

 そして同時に怒りに駆られるがままに二つの星を今時点で失ったことに苦渋の表情を見せるナディア。

 そこへさらに詩声が響く。


「〈騎士の下位風魔術エクウェス・カルス〉――ッ!!」


 包帯を巻きつけた左手ではなく、右手を向けたままに詠むが、その詩は空しく響き渡るだけだ。

 自身の手の平を震える瞳で凝視しながら、疾走を続けるルリーテ。


「〈弓の下位風魔術アルクス・カルス〉!!」


 さらに弓を持ちながら術を詠むも、左腕に魔力がロクに通わず弓を強化することすらままならない状況だ。


 そこへ身軽さを利用し先行して走っていたエディットの叫びが大空洞の反響により、耳へと届く。


「先はさらに大きな空洞です! 魔獣はいませんが、脇道もありません!!」


 希望を掴むことの出来ない言葉に、走る足に力を込めつつも視線が下がる。

 さらにエディットが先へ進むと、そこは岩でできた橋のような道が続き、かなりの道幅ではあるものの、道と壁の間にどこまでも落ち続けるような空洞が口を開けていた。


 ドライを先頭に通路から、大空洞へとひた走る。怪触蛸獣クラーケンは諦める様子を一切感じさせない勢いで追いかけ続けていたが、痺れを切らしたのか、通路から出た際にその行進を止めた。


「――諦めてくれたのか……?」


 微かな希望と共に肩越しに怪触蛸獣クラーケンを見るドライの目が、徐々に……いや、直後に見開かれた。


「伏せろォーーー!!」


 ドライの叫びで進路に向かって、一斉に飛び込むように伏せる一同。


 そして、その頭上、左右に高密度の水の線が縦横無尽に放たれた。


「あいつの魔法さね!! 吸盤かと思ってたらあれは魔法陣にもなるのかい!!」


 キーマは伏せながらその様子を伺う。

 吸盤から仄かに魔力の光が漏れており、その触手に備えられている吸盤から一斉に水が放射されていた。

 岩盤を容易に切断する、魔力をふんだんに含んだ水の刃を受け止めるすべは、今のエステルたちにはない。


「立てェーーッ!! 今のうちに距離を取るんだ!」


 ひたすらに身を縮め水の刃をやり過ごし、一息つく間もなく、ドライは喉を震わせた。


「――あ、あんなの食らったらひとたまりもないですっ」


 エディットがドライの声と共に疾走を再開する。幸いにも水の刃は岩のみを切り裂いていたため、あの混沌の中、仲間が巻き込まれなかったことは幸運と言ってもいいだろう。

 少しでも先行し脇道を探すが左右の崖は途切れることなく続いている。

 息を切らしながらさらに走り抜けた先。

 そこでエディットは思わず足を止めることとなった。


「……い……行き止まり……?」


 岩の橋は希望という名の対岸に架かることはなかった。

 無常にそびえ立ち、冷たささえ感じる岩の壁が姿を現したのだ。


「行き止まりです!! これ以上は進めません!!」


 エディットの言葉を聞いた者は思わず瞼を閉じ、苦渋の表情が浮かび上がる。


「壁を……壁を突き破るさね!! 薄いかどうかなんて関係ない! ありったけの魔術を叩きこむんだ!!」


 キーマの声に即座に反応したエディットが反転し、火球を壁に向かって叩き込む。

 それに続くようにナディアとエステルがお互いに残っている一個の星をエディットがえぐった窪みへと潜り込ませる。


「〈星之煌きメルケルン〉――ッ!!」


 二つの星が爆発を巻き起こしさらに壁は抉れるも、一向に貫通する気配はない。


「まだまだですわっ!!」


「何度でも詠みあげるよ!!」



 エステルたちが壁に張り付き壁との死闘を行っている最中、指示を出したキーマから何かを告げられたドライが歯を軋ませながら、壁際に走り込む。

 だが、キーマはその場で足が止まっており、どこか優しい目でエステルたちの後ろ姿を眺めていた。


「最後……これで最後さね……だから少しだけ――背伸びをさせてほしいさね……泥臭くてもいい……だから――ッ!!」


 キーマの覚悟を見届けていたのは、ドライだけだ。

 天を仰ぎ歯を食いしばった首筋は、血管がはちきれんばかりに脈打っている。


「出ろォ――――――ッ!! 〈中位火魔術ヒルライザ〉ッ!!」


 特大の火球がキーマの手から生まれ落ちる。

 だが、それは壁に向けてではなく、に向けて放たれていた。


「ドライーー!! 続けェーー!! 〈中位火魔術ヒルライザ〉ッ!!」


「オォ――――ッ!! 〈渦の下位水魔術ウェルテクス・ミルス〉――――ッ!!」


 キーマの言葉に続いたドライも、壁ではなく壁に続く道へと魔術を発動させている。

 キーマとドライはお互いが向かい合うように立ちながら、間の石橋に向かって何度も魔術を詠みあげた。


「ド、ドライ様!! 何をしているのです!! それではキーマ様がこちらに渡れません!!」


 その行動に最初に気が付いたのはルリーテだ。ドライに飛び掛かるようにその腕を掴むと壁に向かっていたエステルたちも振り返った。


「ドライさん何を!? キーマさん! 早くこっちにきて!!」


 エステルがキーマに向かって叫んだ時、石橋は既に多重の亀裂を刻み込んでいた。


「キーマさん何をモタモタしていますの! 走るんですのよ!!」


 ナディアの声と共にキーマの腕から火球が放出された。


「キーマさん!! ダメ!! ダメェーーー!!」


 エディットの叫び声空しく、火球は走らせた亀裂をさらに開き、音を立てて石橋は崩れ落ちていった。

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