第71話 章術士ナディア

 翌朝、と言っても日光石の光が届かぬこの深層では寝る前となんら変わらない明るさである。

 示し合わせたように似たようなタイミングで目を覚ました少女たちは、軽食を取ると早速探索を再開していた。


「昨日とは違ってかなり静かだね……」


「ええ。待ち構えてた魔獣たちと、なだれ込んだ探求士の衝突も一段落したということでしょう」


 エステルが壁に手を付きながら珊瑚の道の先頭を歩む。討伐した魔獣たちは身体の一部を残し既に消失しているが、今は魔獣の素材に目を奪われている暇はない、という状況だった。


 最後尾で警戒していたセキが背後に違和感を感じ肩越しに振り返る。

 だが、そこに魔獣の姿は見当たらない。


「エステル、少しだけ先に行っててもらっていいかな? すぐに追いつく」


「魔獣? それならわたしたちも一緒に戦うよ!」


「――いや、昨日まで頑張ってたんだし少しはおれも頑張らないと来た意味がね……それにこの静かな状況のうちに探索は少しでもしておいたほうがいい。孵化した精霊は見てるけどまだ卵が見つけられてないしね。卵探索は正直おれも力になれないから……」


 セキが振り返りエステルたちへ背中を向ける。

 一番大事な目的をセキに指摘されたエステルが目をみはる。ルリーテとエディットもエステルに顔を向けながら小さく頷き返す。


「うん……! じゃあセキ先に行ってるからすぐに追いかけてきてね! 別れ道は目印を残しおくから!」


 背中を向けたまま手を挙げるセキを残し、三種さんにんは珊瑚の道へ再度顔を向けた。



◇◆

「なんだかかなり通路が広くなってきましたね……」


 エディットが顔を振りながら呟いた。


「そうだよね。それにこの先がかなり明るくなってるけど……外に出ちゃったなんてことないよね……」


 通路の先を見つめながらエステルが不穏な思いをそのまま言葉にしているが、ルリーテとエディットも似たような思いだったのか、喉を鳴らすばかりで返事を躊躇っている状況だった。


 通路から出ることに腰が引けていたエステルだが、意を決して足を踏み出すと、そこに広がっていたのは中層で通った大空洞よりもさらに広い空間だった。


 天井の珊瑚の隙間からは表層に合った木々のものなのか、太く強靭な根が垂れさがり、多灯天井灯シャンデリアのように輝きを放っている。

 側面を形成する珊瑚の隙間、垂れ下がった根に、その身を多彩な色で光らせる深海蛍が住み着いていることが輝きの原因となっており、地上と見間違えるくらいの明るさである。


 また、海の底に到達したのか、足場と壁面の一部が珊瑚ではなく、岩や土で形成されていた。


「おぉ……なんだかすごい広間だね……」


「これだけの空間なのに魔獣が一匹もいないのはありがたいですね」


「長年成長し続けてこんな空間ができるほどに成長できるってなんだか壮大です」


 広大な空間に目を奪われながらも、足を止めずに突き進む三種さんにんだったが、ふいに側面から珊瑚の欠片が落ちる音が響き渡る。

 そして視線を上げる前にその声はエステルたちの耳へと届いた。



「お~っほっほっほ! 可愛らしいお嬢さんたちね!」


 エステルたちがそのまま視線を上げると、側面上部の空洞出口に立っていたのは、輝かしいほどの艶を纏った金の長髪と金色の瞳を備えた女性だった。

 エステルよりもいくつか年上であろう、大種おとなの美貌を携え、手の甲を口元へ添える姿が異様なほどに様になっている。


 エステルたちの距離では視認しにくいが、美貌に見合った張りのある滑らかで美しい肌の中で、口元へ添えた右手の平に何かが貫いた痕のようなものが痛々しく残っていた。

 ベージュ色の短円套ショートマントを纏い、その短円套ショートマントにかかるほどに伸びた金の髪は波打つようにウェーブがかり、その手には徽杖バトンが握られている。


「あのように笑う方が実在したとは驚きですね……妙に似合っていますが……」


 ルリーテが見上げながらつい感想を口から零している。さらにエステルたちの返事を待つことなく、金髪の女性は続けて喉を震わせた。


わたくしは『ナディア』! 見たところ貴女もわたくしと同じ章術士! ならばメダルを賭けて星闘戦せいとうせんを申し込ませて頂きますわ!」


 星闘戦せいとうせんとは、元々は章術士がパーティを率いることの多かった過去に行われた決闘方法である。

 『星』、すなわち仲間と共に重要なアイテムを賭けて章術士のパーティ同士がぶつかり合い勝者を決めるという方法である。


 『ナディア』と名乗った女性の唐突の申し出に目を剥くエステルだが、奇襲でもなく、また戦えないほどに疲弊しているわけでもない、正面からの申し出に心が震えていた。


「わたしは『エステル』! あなたが一種ひとりなら、わたしも一種ひとりで受ける!」


「その純粋な瞳に見合った強い意思をお持ちのようね! おもしろいですわ! その勝負――」


 エステルが弾ませた心のままに決闘を受けると、ナディアも唇の端をつり上げながら挑もうとしたその時だった。


「ナディア……相手も章術士だからって一種ひとりで挑まれたら一緒にいる僕は立場がないんだけど……」


 ナディアの背後の空洞から声をかけながらその姿を現したのは、一目でエステルたちが揃って息を吞むほどの巨躯を誇る業鬼種オグルの男だった。


 上半身は獣の皮を纏い、そこから伸びる腕はエステルの両腕を合わせてもなお足りないほどに太く、浅黒い色の強靭な筋肉が顔を覗かせている。

 さらに左手の甲から生える業鬼種オグル特有の角。これも筋肉に負けないほどに禍々しい艶を放ち強堅さを前面に押し出しているようにさえ感じる。

 獅子のように逆立った榛色の髪、同色の髪よりややくすんだ赤みを増した瞳が、下方にいるエステルたちを射貫いていた。


「アドニス! わたくしの申し出に一切の迷いなく受けてくれた心意気に水を差すと言うんですの!?」


「えっと……それならせめて一対一じゃなくて星闘戦せいとうせんらしくパーティ戦闘として受けてほしいんだけど……その上で控えてろ、というならそうするから……」


 『アドニス』と呼ばれた業鬼種オグルは、ナディアの勢いに押されているのかその巨躯を縮こめながら、意見をしている。


 その様子を眺めているエステルたちは相手の力量を測る術を持っていない。

 だが、一目見ただけで本能が理解していた――あの相手には到底敵わない、いや、敵う敵わないの領域ではない、あれはただ自分たちを蹂躙するだけの存在だ、と。


 そこに居るだけで発する圧倒的な威圧感は、熱意と強固な意志で突き立てていたはずの身体の芯を容易に震わせた。


 ナディアとアドニスが口論とは言わないまでも、頑なに決定を変えようとしないナディアをアドニスが必死で説得している状況だが、エステルも、ルリーテも、そしてエディットも言葉が耳に入らないほどに震えた芯から滲み出る恐怖に身体を蝕まれていた。


「こちらから提案しながら時間を取らせてしまいましたわ! わたくしのパートナーが五月蠅いので星闘戦せいとうせんらしくパーティで挑ませて頂くわ! でも安心して……戦うのはこのわたくし、ナディアですわ!」


「――え……ぁっ……」


 喉が渇いたのではない、震わせるはずの喉は止まる気配のない身体の震えに支配され、言葉を上手く発することさえもできない。


 エステルは視線だけはナディアとアドニスを捉えているが、それは視線を外すことさえも恐怖に縛られ動かすことができない結果である。

 その姿が視界にいる限り自身の身体を手はおろか、瞳さえ満足に動かせないエステルに口を動かすことは到底不可能であった。


「うぅ……ぐっ……」


「んっ……ぅあ――」


『チ……チピッ……』


 ルリーテとエディットも必死で抗おうとするも、息を荒げるだけで喉を震わせることはできない。それはエディットの肩で被食者と化しているチピも同様だ。

 自分たちがここまで積み上げてきた経験ものが無意味と思えるほどに強大な存在。

 笑い続けた膝が限界を迎える時は目の前で、一度跪けばその顔を上げることさえ不可能であることを自覚していた。


 返事さえも満足にできない無力な少女たちは情けなさと惨めさを象徴するように、その瞳へ苦汁の雫が滲み出ることを自覚した。その時――




「その勝負受けた――」


 背後から響いたその声はエステルたちの冷え切った身体の芯を瞬時に温もりで包み込んだ。


 背後の足音が近付くに連れ、恐怖に縛られていた身体が自由を取り戻していく。

 少女たちの震える肩に、そっと置かれたその手はこの状況でさえ安らぎを与えた。

 三種さんにんの少女が振り返り、背後で口元を綻ばせた青年を見た時、瞳に貯めた苦汁の雫は、安堵の涙となって頬を流れていった。


 姿を隠していたカグツチが、頭を撫でた拍子にエステルの胸元へと飛び移る。



「遅くなってごめんね。でも……もう心配いらないよ――」


 壁面上部で立つアドニスを見上げたセキの目は、少女たちに向けていた柔和な瞳から獲物を前にした獣の眼差しへと変貌していた。

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