第56話 港町ホルンにて
「これからが本番だ。いい結果が出ることをささやかながら祈ってるよ」
宿の主に部屋の引き払いを告げるとエステルに慎ましい微笑みと共に告げられた言葉だ。
この宿を利用している客はほぼ探求士であり、精選への参加者が多いため自然と見送る際に口に出たのであろう。
「さぁ『リコダ』に向けて出発しよう!」
宿の出入り口で待つ面々はエステルの言葉に踵を返す。今思えばこの宿で様々な出来事があり、その思い出を慎ましく胸に刻んでいる。
新たな門出というには大袈裟すぎるがこの出発を見守る青空は雲一つなく、髪を揺らし草木を撫でる風は、幾分冷たく高揚する気分を冷ますにはちょうど良い。
オカリナという町じたいにも慣れてきた所ではあるが、名残惜しいという感情を胸に宿す者はおらず、次なる冒険の舞台にその胸を躍らしていることはその歩みからも見てとれるようだった。
「これはどういうことかな……?」
港町ホルンへ向かう一行が目にした光景に対する思いがこぼれる。
ホルンは
地図上では断崖地帯が続いているはずの道が痛々しく途切れており、えぐられた崖に波が押し寄せている。
近場に橋が掛かっているということもなくエステルの脳裏には魔獣が生息するであろう森を通って迂回する、という案が浮かんでいた。
「もともとそこの崖が続いてたなら魔獣が暴れたのかな? 海に生息してた
「その可能性は考えられますね。ですが、今の
セキとルリーテが個々の感想を漏らしているが、エディットは何か準備をしているのか自身で背負った荷の中を漁っている様子が見受けられる。
ちなみに荷は風呂敷に似た包みではなく大きめの
耐久性なのか利便性なのか無駄に似合っていただけに少々惜しい。
「チピ! このロープを対岸に結んでくるのですっ!」
『チッピー!』
荷から取り出したロープの端をチピに託す。魔獣の徘徊する森を通るよりは無難な選択ではあるが。
『チピピィー! チピ……ピィィ……』
ロープの端をくわえていたチピが対岸に向けて飛ぶも高度が徐々に下がっている。奥へ飛ぶに連れてロープの重みにその身が耐えきれていないようだ。
すっかり波に攫われる高度になった途端にセキが叫ぶ。
「ダイフク! しっかりくわえててー!」
波に攫われる前にセキがロープを引っ張ると一本釣りされた魚のように戻ってくるチピ。鳥らしからぬ仰向けとなり肩で息をしている様子は限界を超えようと挑戦をした勇ましい姿の代償であった。
「案は悪くなかったと思う」
チピのくわえていたロープを手に取りカグツチの胴体へ結びつけはじめたセキ。
「石にでも括り付ければよいと思うがの――というよりもお主こんな崖飛び越えられるだろうが……」
バレたか……、そんな顔を見せるセキは胴体に結び付けることを諦める。
「というより、ロープはいらないかな。
それは先にいうべきでは、チピがその瞳に小粒の涙を滲ませながら見つめていた。
「え、セキこれを飛び越えられるの……? え、わたしちょっと重いかもよ……?」
「ははっ。女の子の重いはアテにならないから安心してよ」
「ご心配でしたら
身構えるエステルをよそにルリーテが歩み出る――どころか、思考を挟ませる余地なく、セキの脇にその華奢な腕を回し首筋に自身の顔を押し付ける。本来であれば胸も押し付けられていたはずだが、ないものが押し付く、ということは起こりえず、現実とは時に無常であった。
(お!? おぉぉ――)
「うん。ルリ。背負ってもらお?」
瞬間で思考が白飛びしたセキが押し倒そうと試みるもそれよりも早くエステルがその行動に物申していた。
ルリーテはエステルに見えぬよう不貞腐れている姿は見受けられたが、結果的に無事対岸へ渡ることに成功すると第一の目的地である『ホルン』をその視界に収めることとなった。
◇◆
「お~! オカリナから西の町は初めて来た!」
「アルトと同じように考えていましたが、こちらの町の規模のほうが大きいようですね」
「あたしもホルンは初めてですっ。南との往来に利用されるだけあって賑やかですねっ!」
三者三様にその姿に感嘆の声をあげている。規模じたいも大きいがホルンから続いている南との陸路もその姿を見せており、
思い描いていた冒険の大地へと続く道は門番と思われる兵士たちが仰々しいほどに配置されており、セキが通った
「結構な兵士を置いてるんだね。逆側の入口はあっさりしたもんだったのに……」
「南側の魔獣が中央に来るのと、中央側の魔獣が南に来るでは脅威が違うという意味ではないかの」
「あ~……そんなに変わり映えしなかったけど、なんとなく気持ちはわかった気がする」
すでに一度通っているセキとカグツチは少女たちとは異なる感想を口にしているが、来た当時とは異なる賑わいを実感していた。
精選を目的とした探求士や、その探求士を目的とした
「どうしよ……行けば勢いでなんとかなると思ってたけど、宿大丈夫だよね……」
先ほどまで町の規模と喧騒にその目を星のごとく輝かせていたエステルだが、星が雲に隠れたかのごとく光が失われ代わりに額に汗を流している。
「この書き入れ時なので、宿のほうもそれは意識しているはずです。手分けして何件か当たってみれば大丈夫でしょう」
ルリーテがその汗を止めるべく、楽観的な人海戦術の解決案を見出すも、やや薄暗いエステルの表情は晴れる様子は見られない。
「なかったら任せてください。野宿はお手の物なのでっ!」
少し遠慮願いたい意見は、その見た目とは対照的な逞しさが滲み出る少女からの言葉である。
「よし、まずは宿を確保しよう! 『リコダ』までの中継だけどなるべく万全な状態で行きたいからね!」
エステルの掛け声に残ったメンバーも賛同の拳をあげる。集合時刻を大まかに決めて各々は熱意を胸に喧騒響く町の中へと勇ましい後ろ姿を消していくこととなった。
◇◆
「宿の受付に伺う前にすでに看板が出ていましたね。
「あたしも五件ほど見てみましたが同様で、一応聞いても同じ結果でしたっ」
「……うん。わたしも同じだった……しかもついでに聞いたんだけど『リコダ』はここよりも混雑してるから『今から宿って冗談でしょう?』って……」
前途多難な道のりを実感している少女たち。セキとカグツチに至っては
探求士向けの宿だけではなく、精選を見に来る者、または参加探求士にゆかりのある者も含まれているため一般宿ですらこの有様である。どこの町でも熱を入れる理由が痛いほどに納得できた瞬間でもあった。
「活気があってすごい楽しいとは思うけど、宿が取れないっていうこともあるんだね……あんまり気にしたことなかったから……でも、ほら――」
セキが身振り手振りのついでになだめの言葉を放っているとふいにその口が止まる。その意識は背後に向いているようだが警戒するというよりもさらに和やかな感情さえ抱いているように見えた。
そこに。
「セキお兄ちゃんだ~~!」
小柄な体で一生懸命に走りセキの足元にしっかりしがみつき、無邪気さそのものを顔に浮かばせながら見上げる少女。
「久しぶりだね~! 『リル』」
セキがエステルたちに向ける笑みとは異なる、鼻の下を伸ばした多少気持ちの悪い笑みで少女を迎えた。
それに続くようにライトブラウンの長髪を揺らしながら小走りに近寄ってくる女性の姿もある。
「こら~リル。走ったらダメでしょ~。ほんとにすみません、うちの子が――」
セキの足にしがみつくリルをその温和な口調でたしなめるが、謝罪の言葉の折に目を合わせると、
「あ~セキくんだったのね~それならリルが喜ぶのも無理ないわね~」
「『セラ』さん、お久しぶりです! 精選に合わせてさっきこの町に付いたんですよ。それで話していた子たちが……」
セキは足にしがみつくリルに、その目尻を下げた顔を向けていた少女
この町に住む者として現状にも精通しているセラは事情を一通り聞くとそのとろんとしたたれ目をセキに向けた。
「も~セキくんダメよ~。宿がないなんて言ったら~うちの旦那泣いちゃうわよ~も~それ以前になんで宿探しなんてしてるの~」
エステルたちはおろか、セキさえも目を泳がせて理解に戸惑っている。だが、こればかりはセキに非があることは明白だ。
クヌガたち等、他の漁師との関わりさえ持ったにも関わらずその性根を理解していない、と言っていることと同義だからであった。
◇◆
「さ~遠慮しないでじゃんじゃん食ってくれよ! もちろんさっきまでピッチピッチ跳ねまわってた活きのいいやつらを捌いたからな~!!」
エステルたちは海の魚は積極的に取るわけではないため、食べる際は店で購入することが多い。だが、食べる食べないに関わらず店でさえ見たこともない複数の魚と活造りの姿で対面することとなった。
ここホルンではすでに
「は~でもセキよ~
セキたちがセラによって自宅に招待され、連絡さえ受けていない状態であったにも関わらず、帰宅した際にセキたちの姿を見ると踵を返し港へ行き、若い衆を動員して大量の魚を運んできたかと思っていたらすでに卓には捌き済の魚が鎮座していたのである。ちなみにエステルたちは満足に挨拶もできておらず戸惑いを隠せない。
「――え。あの~はい。すいません……」
セキも事情が飲み込めず――いや事情を飲み込む時間さえ与えられていない状況に得意技のとりあえず謝罪、を繰り出すしかない始末である。
だが、そこに助け舟となるかはともかくとしてテンポが和らぐ声が流れた。
「も~あなたったら~ダメですよ~エステルちゃんたちが固まっちゃってるでしょ~」
「お~っと! こりゃいけね! セキからお嬢ちゃんたちの話は聞いてるぜー! 俺は『ガサツ』。この前セキに命を助けられてなー! それ以来の付き合いの
幸いにも挨拶のタイミングが訪れたことに安堵の吐息を漏らすことになった少女たち。ここを逃す手はないとガサツの言葉の切れ目に間髪いれずにその口を開いた。
「あの――わたしはエステルといいます。ガサツさんのお話はセキからも聞いています。いきなり押しかけるような形になってしまいすいません!」
「ご挨拶が遅れ申し訳ございません。
「あたしはエディットです! こっちはチピです! このお魚すっごい美味しいですね……!」
『チピピィー!』
心なしかいつもよりも
ガサツとセラ、そしてリルもその挨拶に返事をすると改めて食事を再開することとなった。
「――ったくセキはまさかホルンで宿を探すなんてしてるたぁ~俺も驚いたぜ~? うちがあるのにわざわざコバルかけて宿探すこたぁーねえだろー?」
「え~はい……。ごめんなさい……」
借りてきた猫のようにその身を縮ませながら鷹揚に頷く。セキは
だが、ガサツとセキの中で距離感にここまでの開きがあるとはセキも誤算だった。漁師特有の気に入った相手への距離の詰め方を見事に見誤った結果とも言えるであろう。
「あの……やっぱりこの時期になってしまうとホルンもそうですけど、リコダやランペットも同じような賑わいなんですよね……?」
初見の魚を嬉々として口に運んでいたエステルだが、宿問題がこれで解決したとは思っていない。なぜならここはホルンであって、リコダでも、ランペットでもないからだ。
「その通りね~探求士でない
「この時期は魚はいくら獲っても足りるこたぁーねえ。うれしい悲鳴ってやつだわなぁ~」
セキが魚に付ける故郷でよく知る調味料である醬油を前に、首を傾げるチピへ少し醤油に漬けた刺身を小皿へ取り分けている。
それを見たエディットも真似をして食べるとその美味しさを口に出すことなく、表情を破顔させる。その手は休むことなく刺身と醤油皿と口を忙しなく行き来していた。
ルリーテも同様に味を覚えるように様々な魚に手を付けているが、ふいにセキから緑色の調味料の塊、『ワサビ』を刺身に乗せるように促され言葉の通りに行動した途端、一度食べていた魚へその手が舞い戻り、もう一度食べ直しを余儀なくされるほどに気に入った様子だった。
このように料理に夢中になっている中、エステルはガサツとセラの回答にその表情を曇らせている。
精選に向けて準備に余念がない状態だったが、出端をくじかれる結果となっており見通しの甘さを反省せざるを得ない、と言った顔を覗かせていた。
「――で、セキ。まさかたぁー思うがリコダかランペットか知らねーが、そっちで宿をとってるなんてこたぁーねえよな?」
「いや~宿をとってるも何もここまでとは思ってなかったので……下手したらあっちでは精選まで野宿になりそうですよ……」
「も~セキくん何言ってるのよ~。うちの旦那はもう両方の宿泊所確保しちゃってるわよ~?」
「――え!?」
その声にセキはもちろんのこと、エステルとルリーテも椅子が背後に倒れるほどの勢いで立ち上がった。エディットはワサビを乗せた刺身を慎重に口に運ぼうと奮闘しているため、他のことは耳に入らない様子だ。
「はぁ~……セキ~お前にはがっかりだぜ~? 言ったじゃねーか。うちの港の連中と共同で立ててる宿泊所。まぁ緊急時に使ったりもするがそれはリコダにもランペットにもあるからってな~」
もちろんそんな話はしていない――が、出会った日の食事で浮かれていたガサツの中ではすでに決定した事項である、ということがひしひしと伝わってくる。
クヌガたちと同様にガサツも漁師仲間と共に各町に同様の施設を持っている様子だ。
「さっきも言った通り宿がパンパンでしょ~? しかも漁師直轄の宿泊所だから食事も好評で
「あの……! その……甘えさせてもらってもいいんですか!?」
エステルの心に立ち込めていた暗雲に切れ目が入る。その隙間から惜しみなく漏れ出る星の光がその表情にも表れていた。
「いいも何もそのために確保してたんだぜー? 使ってくれなきゃ――というか他の宿なんかじゃ精選までの英気なんて養えやしねーぜ? 任せとけ、精選までは貴族ども向けに卸してる
「――え! じゃあ精選までこのお魚たち食べられるってことですか!?」
ガサツの言葉になぜか一番反応するエディット。すでにエディットの手が伸びる範囲の刺身を中心とした魚料理は、その身を一番幼く見える少女の腹の中へと居場所を移していた。
エステルたちも見立てでは、食べきれない、という思いも誤りであったことを実感している。
カグツチも好きなお喋りを後回しにしながら負け時と貪ってはいるが、いかんせん体格の差は埋めようがなく、エディットにリードを許す展開になっている。
「おいおい! 見くびってもらっちゃ困るぜ? これ以上の魚たち、だ! ったくセキが事前に連絡入れてくれりゃーもっといいもんを用意できたんだぜ? いくらセラが料理上手でも素材の味までは変えらんねーからな~!」
「――はい……あの、えーっと……重ね重ねすいません……」
町に来た当初から絡みついて離れなかった宿問題は、思わぬ縁からの助力により綺麗に解決してしまう。
自身を頼ってもらえなかった寂しさからか、不貞腐れながら何かとガサツに目の敵にされるセキ以外は、憑き物が落ちたようにその顔に色鮮やかな笑みを浮かび上がらせていた。
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