五話 りんご売りの娘(二)

 ミユナは、今まで火のそばにいたからだろう。服は煤け、頬も黒く汚れていた。


 ミユナは美人というほどではないが、それなりに可愛らしい顔をしている。溌剌とした彼女の性格と相まって、笑顔はいつも輝かんばかりだ。なんでも隣村の男子から思いを告げられたこともあるとか。

 ——もちろん、その数秒後にあっさり振られた……どころか、振られすらせず怪訝な顔をされたらしいのだが。


 つまり、ミユナは少女なのである。そんな少女が、子供までもがその火事場の輪に加わっていることを改めて見た村長は、ミユナに言った。

「ミユナ。みんなを裏から逃すように。放火犯がいないとも限らない。男どもはともかく、女子供は、お前が連れて行け」

 カシルは、なぜ!と思った。もし万が一、というのならば、ミユナが傷つくこともあり得るはずだ。それ以前に、少女が頼まれて頷くかどうか、カシルはそれすらも怪しんでいた。


 だが、ミユナはあっさりと、それでいて真剣に頷いた。


「了解しました」

 それだけ言って了承を告げると、ミユナは、村長の意を伝えに、燃え盛る門前の人々の元へ走って行った。


 その時、場違いに今更、カシルは気がついた。


 ただの少女にしては、ミユナの足は早すぎることに。


 しかし今は、そんなこと考えている場合でもないだろう。


「村長殿。私たちは、村の荷物の運び出しや、動けない者の移動を手伝います。このまま、何もしないわけにはいきません」

 ミユナの跡を追って自分も指示を出しに行こうとしていた村長の背中に、ユラはそう言った。振り向いた村長は、明らかに戸惑っていた。

「な、何を仰りますか!貴方あなたがたに万が一のことがあれば、この村や私では責任を取りきれません!ええ、お早くお逃げください」

 カシルの地位を知っている村長は、慌てたように言い募る。あまりにも慌て過ぎて、一見普通の少年であるカシルに敬語を使ったことにも気づいていない。誰も聞いていないだろうし、それでバレるともカシルは思っていなかったが、このまま反対されては埒が開かない。


 カシルがユラを見ると、ユラは頷きを返した。カシルが何をしようとしているのか悟り、それに賛同したのだろう。


 カシルは仕方なく、手を刀の様にして村長の首に当てた。あまりの速さに、村長は何が起こったのか全く分からず、結果、いきなり自分の首に手が当てられた様に感じた。ただの手にも関わらず、村長は一瞬で口を閉じた。


 直感でそうさせるほどの恐ろしさが、その動きにはあったのだ。


 村長が黙ったのを見て、カシルは手を下ろし改めて言う。

「私たちも手伝います。では」

 有無を言わさずに去っていくカシルとユラを見ていたのは、村長だけではなかった。



「村長殿。男衆には伝えてきました。ライハとカラも、それぞれ離れた家への伝令に走ってくれています。私もこの付近の家には指示を出しますが、基本はこの広場にいて、誘導を行います。村長殿も、何人かに声をかけて、遠くの家に声かけをお願いします」

 少女の——ミユナの的確な指示に、村長は頷き、更に尋ねる。

「火をつけたした輩は、捕らえたか」

「そちらは、父が追っております。しかし、私も見ましたが……」

 村長は続きを待ったが、ミユナは言葉を続けはしなかった。わずかに間を空けて、礼をして走り去って行く。


 その姿は、この村に来る前の、父親とあちこちを回っていた頃の彼女のものだった。



 この日、幸いにも死者は出ず、皆が無事に朝を迎えることとなった。だが、この放火事件が皆に与えた影響は大きかった。

 朝日が照らし出した村は、いまだに火が残っており、畑も家もほぼ全滅と言っていい状態だったのだ。人が住める状態には程遠い。


 男衆の中には火傷を負った者や、寝起きに走って山へ逃げた女の中には、足場の悪さと焦りで足を捻ったり、転んだりした者も多かった。


 ミユナを筆頭とした年長の子供も、あちこちを走り、声をかけ、荷を運び、大きく貢献したが、衝撃を受けている子も多かった。


「ライハ兄?ミユナ姉?カシル兄?」


 カルも、その一人だった。カルはその足の速さを生かし、ライハと共に、中心から遠くの家へ走っていた。だがその途中で、あわや火に囲まれそうになったのだ。

 家は燃え、カカシも燃え……

 もちろんすぐに、三分も経たないうちにライハが迎えにきたのだが、それでも、恐ろしい思いをしたことに変わりはない。

 カルの、いつもは眠たげに見える大きな瞳を持った目は、今、恐怖で見開かれていた。カルの母親は、火傷を負った夫の元へと行く前に、ミユナ達にカルを預けた。誰も非情などとは思わない。


 カルの父親は、火傷をそれなりに酷く負ったが、それは命がけで牛達を逃したからだ。

 牛や馬は財産である。それを必死で救ったカルの父親は、村人から称えられる存在だった。今は眠っているらしいが。


 カルは先ほどから、ライハにしがみついている。ライハはしっかりと、その体を抱き返していた。二人は、幼い頃——それこそカルが生まれた時からの仲なのだ。震えて今にも泣きそうなカルを、ライハは兄の様に優しく慰める。そこに、いつものふざけたライハはいなかった。

 二人だけでも大丈夫そうなカルとライハを見て、ミユナはカシルを呼んだ。

 その顔は酷く疲れていて、なぜか一瞬、刃の様に鋭く見えた。



 誰も近くにいない様な場所に、二人は立っていた。理由もわからず連れてこられたカシルには、何をしようもないが、ミユナは何も言わない。

 カシルが戸惑っていると、ミユナの後ろから、人の気配を感じた。村人ではない。明らかな悪意のこもった気配だ。どうやら走ってきたらしく、人影が見える。カシルは身構えた。


 ミユナは気づいていないかもしれない。そう思い、足を踏み出そうとした。


 しかし、それは杞憂に終わることとなる。


 ミユナが、手刀と蹴りで相手を気絶させたのだ。


 倒れた男を見て、カシルは驚く。そしてその時になってミユナは、ようやく口を開いた。

「こいつら、ジャユンだよ。あんたを追ってきたんでしょ?カシル。いや」


 ミユナの言葉は、カシルには酷くゆったりと聞こえた。


「王太子ルエナ様」


「…………」

 カシルは何も言えない。耳の中に、自分の鼓動の音が響く。そして、気づく。


 ああ、自分は。


(自分はこんなにも、王太子であることが露見するのが、嫌だったんだ)と。


 ミユナは、足でジャユンの男を押さえながら言う。

「王太子様さ、なんでこんなとこいるの。カシル、こいつらはさ、あなたを狙って火をつけたんだよ」


 息が詰まる。苦しい。なにが?体?いや、きっとちがう。


 きっと、心が。


 ミユナは、いきなりカシルの胸ぐらを掴んで言った。

「こんなとこでなにしてんだよ!カシルが生きるべきはここじゃない!カシルは王太子として生まれた。私は用心棒の父を持つ娘として生まれた。恨んだって仕方ない。恨むなんてしちゃいけない!」


息が苦しかった。なんでわざわざ崖に突き落とす様な事を言うんだとも思った。けれど、それ以上に。


それ以上に、自分が見てこなかった現実を突きつけられて、苦しかった。頭がいっぱいいっぱいになる。


「足掻け!カシルには、カシルにも、背負うものがあるのに気づかないふりして!私たちは、カシル達王位を持つものに預けるしかないのに!」

 大声を出して気が済んだのか、それともそれだけを言いたかったのか。

 カシルにはわからない。だが、分かったことが一つ。


(自分は、逃げていたんだな)

 シアナの喪失を悲しんで。王になると言って。

 それでも、自分には実感も責任も持てていなかったのかも知れない。そう、カシルは思った。



 気がつけば陽は、完全に山を照らしていた。


 山も、消えた村も。そして、ミユナの頬を流れる涙も。

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