四話 りんご売りの娘(一)
初夏が終わり、カシルの帰城が迫っていた。
カシルが過ごした一年に満たない日々の中で、村に対して抱いた印象は“穏やか”だった。
きっと誰も思わない。
この村が一度、地図上から消えかけたことなど。
始まりは、暑くなり始めた初夏の終わり。夜中、静寂しか無いその暗闇に、一つの灯りと足音が響いた。
日頃から厳しく鍛えられていたカシルとユラは、誰よりも早くその“異変”を察知した。アムラの恐ろしくキツい教えは、こんなところで吉と出たのだ。
二人が最初に感じたのは、匂いだった。きな臭い、焦げた匂い。慌てて跳ね起き、外に出る。
「……嘘だろ……」
城周りの街と違い、田舎のこの村の夜に灯りなどないはずだった。
だが、今。
暗い道の端には、ポツンと明かりが灯っている。それも一つではない。村の角を示すように、一つ、二つ、三つ、四つ……
あわせて五つの火が燃えていた。
二人の鍛えられた足で、近くの明かりまで走る。近くに行くと、燃えていたのが村周りの森の木だと分かった。
二人が借りていた古屋が村の比較的外側にあったのでさほど時間はかからなかったはずだ。だが、それでも既に、火は木を包み込んでいた。その上ご丁寧に、木に切れ込みでも入れてあったのか、燃え盛る木が、森側でなく村側に倒れてくる。
村は木の柵で囲われている。表と裏には、粗末ながらも木造の門があった。
もしもこんなふうに、燃えた木が倒れてきたら。
間違いなく、門は燃える。
門の近くにはやはり家があり、田があり、畑がある。囲いの外に田畑を持つものも多いが、それでもそれなりの数が村の中に作られているはずだ。今、燃やすために干していた雑草の山が、畑にはある。
更に、この村では最近、カカシ祭があった。去年の稲藁がだめになってしまう前に、縁起のいいとされているカカシづくりと、藁屋根に使ってしまうのだ。この稲藁は、何故だか普通の稲よりも燃えやすい。パチパチと爆ぜるようにしながら燃えていく様は、とても綺麗で、花火にも使われるのだが……
つまり、この村には今、至る所に藁や干草がある。
最悪に最悪が重なっている様なものだ。
もしもそれに火が移れば、村全体に火が回るのも時間の問題だろう。
こうなってはどうにもならないと判断したカシルとユラは、再び猛スピードで家へと戻った。そして思い出していた。
古屋で見た明かりの方角。あのうち一つは、今見てきた木だろう。その対角線上と、隣にあった明かりも、同じように村の角に当たる場所だった。
では、残りの二つは?
「カシル!森側の柵から出るしかない!」
「分かってる!」
一つは、森に接した裏門だ。おそらくもう一つも、門がある方向で間違いないだろう。表門は森に接していないため木はないが、その代わりに、丈の長い草原が広がっている。広くはないが、去年の枯れ草が未だに混じっているので、それなりに燃えるだろう。
その上、あの木の燃え様……どうやら油まで塗られていそうなのである。夜のうちに、こっこりと放火犯が村に油を撒いたりしていたら、それこそ手に負えなくなる。もちろん、草原も然り。
つまりこの村は、火に囲まれてしまったことになる。
二人が戻った頃には、多くの人がこの火事に気づいていた。やはり予想は当たり、五つのうち二つの火は、既に門に燃え移っていた。
男総出で門の消火にかかっていたが、どう見たって火は消えそうにない。それは中央にいて指示を出す村長にも分かっているのだろう。年で僅かに皺の多い顔が、力を込められて歪んでいる。
「村長殿!」
周りの喧騒で村長は最初は気づかなかったが、もう一度呼ぶとカシルに気づいたようだ。忘れていたのかもしれない。——いや、おそらくそうだろう。
少し慌てたように、カシルの元へとやって来て言う。
「カシル殿、まだいたのですか。ご覧の通りです、ええ。何者かが火をかけたようで、ええ。今消そうとしているのですが……」
パニックになっているのかもしれない。何故か見てわかるであろう現状を述べる村長の姿は、いつもさっぱりとした態度の彼らしくなかった。
消火活動にあたる人々を見ると、その中には、女子で子供であるはずのミユナもいた。ミユナの動きは男衆に負けないほど力強い。更に見れば、カルやライハもその中には混ざっている。本当に、総出でなんとかしようとしているのだ。だが、それでも火は全く弱まらない。
(このままじゃだめだ……草原にも、もう火が回っているはず。逃げるとしたら今、森の方しか……)
まだ喋っている村長の肩を掴み、カシルは声を大きくして告げる。出来るだけ迫力があり、それでいて偉そうにならないような口調と声量で。
「村長!落ち着いてください。今火を消すのは無理です。村には布がある。家は木造です。燃え移れば、あっという間に火はこの村を覆います!」
カシルの大声にハッとしたのだろう。村長は一瞬いつもの顔に戻り、そして、カシルの言葉と現状を理解したのか、今度は怒ったような嘆くような顔になった。
「だから、今のうちに森の岩場まで逃げるべき……」
「いい」
カシルの言葉を、村長は遮る。今度呆然としたのは、カシルの方だった。そして次に、まさか逃げることを拒否されたのかも思い焦る。
「村長!逃げなかったらみんな……」
しかし、村長は、馬鹿でも見栄張りでもなかった。
「分かっておるよ。みんな死ぬ。……分かっていたさ。この村は、諦めるしかない」
その顔に浮かんでいたのは、苦いものを飲み込んだような表情だった。
「村長?」
その時、こちらが気になりやって来たらしいミユナが、村長に声をかけた。
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