六話 獣の心
「…雨が、降りそうですね」
ポツリと、テムがつぶやいた。
テムは近頃身長をぐんと伸ばし、しなやかな体を持つ若者になっていた。まるで若木のようだ。
「またか?最近はこんな日ばかりだな」
カシルが、やや苛立ったように言うが、それが本気なのかは分からない。その隣で、ユラは懐から石を取り出し確認する。
「…本当だ。
別名滝の涙と呼ばれる宝石は、その名の通り雫型で、滝近くに、果実が実るようにできる。どのような仕組みで生成され、また、なぜ降水量や確率により変化するのかは、未だに謎のままだ。
長期的な天気の予測にはあまり向いていないため使われることはないが、数時間程度の降水量や天気ならばそこそこ当たりが良い。雨の量や率が高いほど曇り、晴れならば透き通る。
学者の中では、湿度の関係だと考えられているようだ。
今、雫石の内側は、濁るように曇っている。つまり、本当に雨が降る確率がかなり高い。
「さすが。獣のような勘だね」
「……」
ユラの褒め言葉に、セノは特に反応しない。だが、ユラがそれを咎めることはなかった。二人の距離感は、これなのだ。
「相変わらずだな」
カシルは、己の傍を歩くザナに言う。
聞けば、孤児として二人きり、裏町と街の間の隅で暮らしていた頃。
小さいからと襲い掛かってくる輩を、二人して毎日のように片付けていたらしい。だが、腕が立つのは——どちらかと言えばだが——体のしっかりとしたザナの方だった。
セノは、腕力より素早さに長けていたが、更に優れていたのが、生き延びることだった。
雨の当たらない森に逃げたこともあった。
草原の雑草を食べたこともあった。
だが凍死や、動物による襲撃などは防ぐことができた。
それは、セノの手柄と言っても過言ではない。
セノは、ザナよりも早く天候の移り変わりを察した。
周りの大人よりも先に、気配を察することができた。
そして誰よりも、森の中で生きるのが上手かった。
いつか、ザナは言っていた。
『私が無事に生きられたのは、おそらくセノのおかげです』と。
そして、気にしてもいた。
『セノは、まるで森に住む獣のようなのです。人である私よりも草の毒に強く、見栄を張らず、
だから、もしかしたら。
『私がいなければ、セノは山でも生きていけたのかもしれない。そうしたら、もっと豊かに過ごせたのでは。私は、足手まといだったのでは、と』
(気にすることなどないだろうに)
カシルは思っていた。獣は、大切な他人がいるからこそ留まってくれるのだ。縛れるほど、彼らは弱くもなければ、単純でも馬鹿でもない。
しかし、言えなかった。時折、カシルも、似た気持ちになるからだ。
気ままなようで、どれだけ大声を出そうと静けさがあって。
人より強く、一人でも生きていける心を持っていて。
そして何より、どこまでも真っ直ぐな瞳の者を、獣のようだと言うのなら。
(ユラも“獣”だからな)
底の見えない、驚くほどの純粋さと知性を合わせ持った瞳は、前に一度だけ見た、豹のようだった。獲物を捕らえるためじっと潜み、捉えたら離さない…
「カシル?どうしたんだい」
カシルは、ハッと物思いから覚めた。
ユラが、カシルの顔を覗き込んでいる。
「早くしないと、館に着かないよ」
「分かってるさ」
そうだ、とカシルは思う。今は、こんなことを考えている暇などない。
普段は影で護衛をするか、カシルとユラの、足や耳目として遠くに行っていることがほとんどなテム達が、二人と馬を並べているのには訳がある。
この四人は、これから戦へ行くのだ。
秋になり、ジャユンの攻撃は目に見えて増えていた。アラクトももちろん、それなりの数の兵と、それをまとめる将を持っているが、それでもそのほとんどが国境へ出払ってしまうほどの多さなのだ。
また、田畑の収穫期である今、下手に農民から徴兵しすぎるわけにもいかず、兵不足にも悩まされていた。
そこで向かわされたのが、カシルだったのだ。
カシルは、戦に向かうことを厭わない。それどころか、城にいるよりは好きだとまで言う。
『俺は閉じ込められるのは嫌いんだ。はっきり言うと、王太子って位も好きではないしな』と、たびたび言うほどには。
「兵の数は?」
「ほとんど同じ、と思って大丈夫だと思うよ」
カシルは、右腰に剣を帯びる。
「こちらの準備は」
「……僅かに手間取っているものがいますが、大方はもうすぐ終わるでしょう」
ユラは、長い髪をきっちりときつく編み上げる。
「皆、準備はいいか!」
テム達も、普段から持っている刀を背負う。
兵からも、声が上がる。
「いくぞっ!」
「「「「おおーっ!」」」」
この時、カシルはただ、いつもと同じことしか思っていなかった。
人を殺すのは好きではないが、戦は嫌いじゃない。城なんかより、別邸が好きだ。王太子なんて、なりないと思ったことないが、仕方ないものだろう。
そして何より、斬れ、勝て、勝利を掲げよ、と。
だが、普段通りだったのはここまでだった。
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