五話 兄と妹
「兄上!」
王城の廊下を、パタパタと可愛らしい足音を立てて駆けていくのは、今年四つになった少女だ。それを見たカシルは振り返り、わずかに微笑んで見せる。
「シアナ」
母親と同じ明るい茶の髪を丁寧に飾り、軽そうな肩掛けを羽織った少女。その瞳は、王家の象徴である紫色の混じった紺だ。
頬が、近頃咲き始めた桜のように柔らかくそまっている。
四年前まだ赤子だった姫は、今では随分と成長し、口も随分と回るようになっていた。異母兄であるカシルを見ると、いつも嬉しそうに駆け寄っていく。
一昨年の新年の儀でカシルの舞を見、さらには同じ王族として昨年から舞を習い始めてから、シアナはカシルに対して親近感を抱いてでもいるのか、随分と懐いていた。
「兄上、またごようじですか?」
しかし、カシルにも最近は用事が多かった。隣国ジャユンの動きが活発化していて、ユラやテム達と共にそれを探っているのだ。
十四となったカシルは、正式な王太子として、人をまとめる立場に立ち始めている。剣においては、ユラと共にかなりの腕前をカシルは持っているので、小競り合い程度の戦にも赴いていた。それは、空白の時間のせいで浮いていたカシルが認められたということであり、喜ばしいことである。
だが、兄上と話す時間の減ってしまったシアナとしては、いささか不満らしいのだ。もしかしたら、心配もあったのかもしれない。
聞いてやりたい気持ちもあるが、カシルもしかし、承った務めを放棄するわけにはいかなかった。また今度、と言い聞かせ、なんとかシアナを納得させる。
「どうだった?ジャユンの動きは」
諦めたシアナが去ると、どこに潜んでいたのか、一人の青年が近づいてきた。
短い焦げ茶の髪と、人を射殺すような冷たく鋭い瞳。
テム・ザナである。
初めて会った時と違い青年らしい、鍛えられた体だが、変わらぬ平坦な声で、ザナは告げた。
「戦支度は、目眩しの可能性があります。詳しいところまでは流石に調べられませんでしたが、内通者の可能性も懸念した方がよさそうです」
「…分かった」
アラクトの北西と接するジャユンは、豊かな土壌を持つが、鉄などの鉱石の産出が極端に少ないという欠点がある。民も多くが農民で、戦の際には徴兵で集められた兵が主なのだ。
また、アラクトと接しているといっても、両国の間には広大な川がある。中央の高地から流れる三本の川の合流であるそれは、おいそれと渡れるほど浅くもなく、何より川幅が広い。ただの川というよりは、大河である。さらに潮の具合や気候によっては荒れもする。橋も二本あるのみで、これを見るだけで、アラクトにどれほど国交がないかわかるというものだ。
たとえ他国間で川を渡り北部から攻め入ろうにも、北部は深い森に周囲を囲まれた半ば孤高の地だ。難しさは変わらない。
——だが、戦が目眩しなのならば話は変わる。
(内通者のことも考えなくては。思いたくはないが、俺の身の回りにいる可能性も低くはない…)
思案しながらカシルが歩き出すと、ザナがついてくる気配と足音があった。珍しい。普段は、要件を告げいつのまにかどこかに消えているのに。
「どうしたんだ?ザナ」
まさか聞かれると思っていなかったのだろう。またもや珍しく、ザナは表情を崩した。豆鉄砲を食らったような、という言葉がよく当てはまりそうだ。
「いえ、その…。ただ、不思議だっただけなのですが…」
声色はいつもと変わらないとはいえ、言葉がつっかえるなどますますザナらしくない。だが、今の間にそんなに気になることなどあっただろうか。
「まさかルエナ様が、あれほどあの姫君を構うというか、気にかけるなど思いもしなかったので」
ああ、とカシルは頷いた。確かにそうなのかもしれない。長い時間を共有するユラはともかく、周りから見たら未だに、よく分からないという印象が強いのだろう。とはいえカシル自身も、改めて聞かれればよく分からず、上手い正解も見つけられなかった。
仕方なく、その場で思いついたことを言っておく。
「もしかしたら、俺はシアナを家族と思ってるのかもしれない。それも数少ない、裏切らないと信じられる家族だと」
その答えは、言ってみただけのものだったが、案外的外れではない気がした。
カシルの母は、カシルが二歳の頃に二つ隣のハウクに殺されている。幼すぎて——当時は泣いていたが、今はほとんど覚えていない。
父親は、いるにはいるが、父である前に王である。また長い別離が、なんとも言えない距離感を作り出してしまっていた。それに父としてはともかく、王である彼としては、王太子であるカシルをどう思っているのか分からない。
ユラは、幼い頃から共にいるが、この距離感は家族でないからだとカシルは思っていた。
常にユラは、カシルに近づきすぎない距離を保ち、主人と側近という役が消えたことはないように思える。
言い合いや仲違いなどがないのは、このせいかもしれなかった。
だが、シアナは違う。幼く、いつも無邪気な瞳でカシルを見つめる。時には争いもする血のつながらない兄を慕うことに、周りが渋い顔をしても、いつのまにか来ている。
それは、今までカシルが触れてこなかった、絶対的とも見える家族同士の情だった。
幼い自分を重ねているのもあるかもしれない。
三年前、カシルの暗殺を企てたのは、やはり、リウネの実家の重役達だった。リウネはそれに怒り、一度は縁切り騒動にまで発達した。
それは、リウネの世話役やら元教育係やらがどうにか取り成したのだが、未だに緊張の残る関係のままだ。
そしてその騒動が起きたのは、シアナが二つの時。
そんな時だったのだ。
カシルがシアナに、改めてちゃんと会ったのは。
「俺にとって、シアナは幸せになってほしい、大切な妹だ」
ポツリと溢れたカシルの言葉を、聞いたのか聞いていないのか。ザナは何も言わずに立ち去りかけ、もう一度カシルを振り返り言う。
まるで予言のように。
——人を愛するのは優しさですが、その優しさが、弱みとならないことを祈っています。
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