本編

序章

始まりの始まり

 一人の少年が、身の丈に合っていない大きな椅子に深く腰掛けている。隣に置かれたランプの灯りが、彼の待つ本をぼんやりと照らしていた。

 いつのまにか日は傾いていて、部屋は薄暗い。それでも、少年は本を読み続ける。


 線の細い、大人に比べれば随分と華奢な彼は、まだ四つでしかない。


 だが、読んでいるのは学生ーそれも優秀な中級学年以上が使うようなものだ。結んだ髪を前に垂らした、笑えば愛らしい顔もする子供にはあまりに不釣り合いだったが、少年はただのおふざけで本を開いているわけではない。彼にとっては、この程度の本が本当に“釣り合った”ものなのだ。


 少年が、更にしばらく集中して本を読んでいると、外の廊下から足音が近づいてきた。その足音は、部屋の前で止まる。だがそれでも、少年は顔を上げない。


 それは、彼がこの家を、場所を、共に住む者を信頼しているからだった。


「ユラ。流石にこの暗さの中、簡易灯で本を読むのは良くないよ」

「…父上」

 木造りの小さく分厚い扉をくぐったのは、少年ーユラの父だった。名を、ヨハラという。髪はユラと同じ深く混じり気のない紺で、厳しそうな目元だがそれ以外は優しげだ。


 ヨハラがボソリと呟きながら、白土の壁に走らせた溝に指を擦らせると、溝に火が走る。


 あらかじめ、この溝には程よく燃える油が塗られていて、そこに入れられた火種は油に沿って燃える。

 部屋はあっという間に、柔らかな灯りに包まれた。


 これを、この父子は照明と呼んでいるのだ。


 明るくなった部屋で、ユラは椅子の脇に置いていたランプの火を吹き消す。

 赤 青 緑 黄

 金の枠組みに色ガラスが嵌められたランプは近頃、街で小洒落た灯りとして人気な物だ。


 こちらの方が、この父子のいう簡易照明である。



「父上」

 ふと、年相応の声でユラがヨハラを呼んだ。僅かな甘えと、明るさを含んだ声である。


 しかし、年相応であるにも関わらず、その声はどこかユラからは浮いて見えた。やや大人びた口調のせいかもしれない。

「ん?」

 ヨハラが振り返ると、ユラは瞳をおもしろそうに細めながら、やはり甘えるように言った。いや、実際甘えているのだ。

「…………」

 そこに浮かんでいたのは、純粋で無邪気な、 それでいて狂ったような表情だった。

「ぼく、ほしいものがあるんです」


 ヨハラは、あぁと思った。時折、ユラは子供のように、物をねだる。この年の子供らしく。


 乾燥花の飾り、星々の模型、古い地図、色ガラスの耳飾り…


 ユラがいつも読む本だけは、あまりねだられたことはないが、しかしそれは、頼まずともこの家の地下庫には、多くの本が保管されているからだ。


 一年半ほど前は、蜥蜴が“欲しい”と言った。その蜥蜴は、黒い体に走るオーロラの様な色が美しい一方で、飼育下では一年ほどで死んでしまう。

 そんな蜥蜴をユラは、一年と半年、生き長らえさせた。最後はヨハラも知恵を貸していたので、死んでしまった時には悲しくもどこか達成感もあったのだ。


 ついでに言うならば、死んだ蜥蜴はユラの実験材料に使われている。


 ユラはその活用までを含め、生物の飼育を気に入った様だった。元々、段々と飾り物には興味がなくなっていた様子もあったあので、ヨハラとしては良いと思っていた。

 よくある、子供のように投げ出すこともない。それに、普通らしく人の集まる賑やかな街や市にはあまりいけないのだから、何かに興味をもてるのらいいことだ。


 しかし、ユラは全く違うことを言った。そんなことよりも大それていて、他人が聞いていたら寒気のするであろうことだった。


 だがユラからは、全く悪気も何も感じられない。ただ無邪気で、楽しげに。そしてどこか浮かされた様に熱中している子供の顔だ。


「らいねんお生まれになる、おうたいしさまがほしいんです」


 狂っている。周りから見ればそうだ。 冬の寒さと期待に満ちた沈黙が、部屋に満ちる。


 しばらく間を空けて、ヨハラは言った。

「ユラ、自分の言っていることがわかっているのか?」

 ユラは、何の迷いもなく「はい」と言う。

 子は、親を写すというが、それはまさにその通りである。こんな子供が育つなら、親も親なのだ。


 ヨハラは、ユラが言ったことに対して引いたりはしなかった。王妃の腹はまださほど目立たず、懐妊を知っているのすら僅かだ。ヨハラはその立場上聞いていたが、それだって最近のことなのである。まして、性別などわかるはずがない。


 だが、ユラは“王太子”と言い切った。知るはずのないことを知っていて、けれどそれを、ヨハラは気味悪がりも、恐れもしない。


 ただ僅かな興味や関心があるのみだった。


それゆえの、冷静さなのである。

「人はペットでも、まして物でもないんだよ。欲しがって手に入るものではないし、手に入っても思い通りにはならない。離れていくことだってある」

 ユラは、真っ当に見えて、それでも大きく前提がずれたヨハラの言葉にキョトンとした。そんなことを、聞かれるとも思っていなかったのだ。

 僅かに思案する様に視線を下に彷徨わせると、まるで大人の様に見える。しかし答えが決まったのか、もう一度、その愛らしい瞳を父親へ向けた。そこに浮かぶのは、今度は子供らしい笑みだった。


「もちろんそうです。人は、だれかのおもいどおりにはならないし、けど、そこがおもしろい」

 無邪気な笑顔に束の間、暗い何かがよぎる。けれどそれは本当に一瞬で、やはり次の瞬間には、花が咲く様な笑みを浮かべていた。

「それで父上、ぼくの“おねがい”聞いてくれますか?」


 ユラは、決して無理なわがままを言っているつもりはない。三日に一度ほどしか帰らない父。おそらくは、王宮において秘書や側近に近い何かとして務めているのだろう、とユラは思っていた。

 ユラは、ヨハラがそれを出来る地位にいるだろうと考えているからこそ頼んだのだ。

 知識も思考も、落ち着き切ったその言葉遣いも。そのどれもが、幼い彼にはそぐわない。

 ヨハラは、浅く細いため息を吐く。

「聞いてもいい。だが、私がするのは手引きだけだ。計画の確認はするが、主導はあくまでもお前だ」

 ヨハラがユラをみると、こくりと頷いていた。

「次に、私にも地位がある。危うくするには、些か惜しい立場がな。だがお前の願いは、それすら不安定にしかねない。よって、お前が王宮に入り王太子と会った時点で、お前は私の息子ではない」

 ヨハラがユラを“お前”と冷たく呼んだのはわざとだ。


 妻も親もいないヨハラにとって、ユラは愛息子。しかし、当の本人がもつ執着心も理解しているヨハラは、最後に試したのだ。無駄になるのだろうと、思いながらも。ヨハラには分かっていた。己の血を引く一人息子がそこにかけている意志を。ユラは、中途半端なことなどした試しがないのだ。

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