エピローグ 煤原信夫

「雇ってくれ」

 来客用ソファに腰掛けた煤原すすはら信夫しのぶの言葉に、『』と書かれたスマートフォンを突き出す動きが重なった。突然の探偵志望者ふたりを目の当たりにした間宮まみやカナメは、今にも気を失いそうな様子で自身のこめかみに手を当てていた。

「どういうことなの、小野ちゃん……」

 説明を求められた小野おの美佳子みかこは、煤原が最後に彼女の姿を見かけた時、つまり九重海岸に於ける連続殺人事件の捜査本部近くで見かけた時よりずっと顔色が良く、元気そうに見えた。間宮探偵事務所を訪ねる道すがら、偶然小野に出会ったのだ。自分も今から間宮に会いに行くのだという小野と、その連れである長身の人物と共に、煤原はだいぶ久しぶりに『友人として』間宮カナメの元を訪れた。

 それで、これだ。

「なんで! ハラちゃん無職になったの!?」

「その件に関しては、話すと長くなるんだが……」

 本当に長くなる。警視庁勤務時代に被疑者に向かって発砲したことが原因で、煤原信夫は九重市に職場を移すことになった。有体に言えば左遷だ。三年前の話である。

 そして今回、煤原はまた引き金に指をかけた。相手は幽霊だ。煤原の拳銃から飛び出した鉛玉は、海中ですぐに発見されたらしい。妙なこと仕出かすんじゃないよ、と鑑識の犬飼いぬかいそそぐには散々に叱られた。


 馘になると思っていた。


 だが、事件当時の直属の上司であった小燕こつばめ向葵あおいが煤原を警視庁に連れ戻した。おまえのような狂犬は、と彼は閉鎖される捜査本部のど真ん中で、その場にいる全員に届く良く響く声で言った。

「こんな田舎町に置いていたら、何をやらかすか分からん」


「──えっ? 警視庁復帰ってこと? それはおめでとうなんじゃないの?」

 煙草を片手に瞳を瞬かせる間宮、それに煤原のすぐ隣に座った小野美佳子が、

「おめでとうございます!」

 と拍手をしてくれる。あまり嬉しくない。

 帰京後すぐに現場復帰、というわけにはもちろんいかなかった。溜め込んでいた有給を使うように小燕に命じられ、現在は謹慎中という有様だ。

「謹慎にも飽きた。警視庁に辞表を出すから雇ってくれ」

「えええ!」

「名探偵には相棒が必要だろう。俺ならちょうどいいんじゃないか?」

「いや全然良くないね! 私は一見可憐でいかにも守りたくなっちゃう風情を持ちながらその性根はタフネスな美形としか組みたくないのだ!」


『それじゃあ僕ならぴったりじゃないですか!?』


 無茶苦茶な宣言をする間宮の目の前に、煤原から見て小野の向こう側、ソファのいちばん左端に座る長身の人物がサッとスマートフォンを差し出した。画面に並ぶ文字を見詰めた間宮は眉間の皺を解くこともなく、

「あなた──八房はちふさ壱海いちかさんだよね?」

『はい!』

 小野美佳子の連れが人魚だと、煤原は一ミリたりとも予想していなかった。素直に驚いた。

 だいたい、といえば──

『バスルームで内臓をぶちまけて死んだ壱海です』

 深い青緑色の髪を肩口で切り揃え、水晶の瞳をキラキラさせながら壱海がスマホを煤原に向かって差し出す。そう、物騒な自死を選んだ人物の名前だ。しかも命を絶った時の姿は、男性ではなかったか。

「あの、いちかちゃんは、っていうか人魚さんは、蘇るんです」

 おずおずと挙手をしながら小野美佳子が発言した。

「蘇る?」

 大きく瞬きをする間宮に、小野と壱海が揃って首を縦に振った。

「これも──立花寅彦さんと一緒に調べとるうちに分かったことなんじゃけど……いちかちゃん、言うてもええかな?」

 八房壱海は形の良い眉をキュッと寄せ、それから大きく頷いた。

「人魚の肉を食うて不老になった人間は、。じゃけど人魚さんは、ほんまに生まれた時から不老の人魚さんは、──蘇るんです」

 蘇る。

 つまり、と間宮はかさついた唇を人差し指で撫で、

「誰かが壱海さんを、海に還した……?」

『兄です』

 壱海は即答した。

汐海しおみです』

「ああ、あっちの──お兄さんなの?」

『にんぎょは両性具有です』

 躊躇いもなく壱海はさらさらと回答する。そういえば犬飼が言っていた。血縁者の八房汐海の許可を得て解剖を行った、と。

「いちかちゃんは汐海ちゃんに海に戻され、どうにか体を取り戻しました。警察の方が、きちんと全部回収してくれたからじゃって汐海ちゃんは言うてました」

『その節はありがとうございました』

「あ、いえいえ」

 煤原はお礼を言われるような筋ではない。今度犬飼に会ったら伝えておこう。

「で、どうして、また陸地に上がろうと?」

「それは」


『小野ちゃんとつがいになりたくて!』


「えっ」

「え?」

「あぁ〜……」

 壱海のフリック入力は早かった。小野美佳子の制止を振り切るようにして突き出されたスマホの画面を見下ろし、間宮と煤原、年長者ふたりは硬直した。

「つが……い?」

『ふうふです!』

「えっ小野ちゃん、この子と付き合ってるの?」

「そんな! まだです!」

『間もなくです』

 壱海の笑みは余裕の笑みだった。間宮とのあいだに火花が飛ぶのを見たような気がして、煤原はそっと目線を逸らした。

「ちょっと待ってね八房壱海さん……あなた、思い出したくないかもしれないけど、男の子たちにとんでもない目に遭わされて自死を選んだよね?」

『それは、はい』

「なのに、まだ陸地の人間に興味があるの? 探偵さん、ちょっとびっくりしちゃうな」

『あの時は』

 ババババババ、とものすごい速さで壱海の両手がスマホの画面をタップする。


『何も失っていませんでした』

『声も、歌も、全部ある状態で人間になりました』

『人間を知りたかった』

『対価を払わなかった』

『対価を払えばあの男たちに汚されることもなかった』

『僕はあの時【】という女性を守れなかった』

『それで死にました』

『汐海は陸地が長いけど』

『細かくいろいろなものを捨てています』

『汐海は歌えない』

『人魚の命でもある歌をまず捨てたんです』

『僕も』

『今は』

『声も歌も尾鰭もありません』

『脚があります』

『人魚の僕を捨てました。人間になってやり直したい』


 流れ出る言葉たちを黙って見据えた間宮が、質問、と低く言った。

「そこまでして陸地に拘るのはなぜ?」


『あの海にはもう居場所はありません』

『汐海が捨てた死体でいっぱい』

『新しい場所で生きなくちゃ』


「……他所の海じゃ駄目なのかな」

 壱海は美しく微笑み、首を横に振った。

『他所の海には他所の化け物。巣を追われた化け物は、人間に紛れて生きるしかない』

「いちかちゃん」

 小野が不安げな声を上げる。

「いちかちゃんは、化け物なんかじゃ」

「化け物だよ」

 間宮が言った。迷いのない、凛とした響きだった。

「でもま、常時人手不足のこっちとしては化け物歓迎。声がなくても力仕事はオッケー? 何ができる?」

『なんでも』

「なんでも……ね。探偵のなんでもはマジのなんでもだから、覚悟しときなさいよ」

 やった、と小野と手と手を取り合い喜ぶ壱海の姿に柄でもなく暖かい気持ちになる煤原に煙草の箱を投げ付けて、間宮は言った。

「ハラちゃんは不採用。だってどうしたって警察だからね、あんたは」

「そうかよ」

 そうなるだろうと思ってはいたけれど。


 後日、八房壱海をクロガネ探偵事務所に回す気はなかったのかと間宮に尋ねたところ、女探偵は童話に出てくる地獄の鬼のような顔で応じた。

「同じ修羅場を経験したふたりが同じ職場で働き始めたら即くっついちゃうでしょ! 駄目! 絶対駄目!」

「おまえ……小野美佳子に気があるなら……」

「そういうんじゃなくて〜〜〜〜〜下世話な言い方やめて! もう!」

 怪談バーのカウンターに突っ伏して喚く間宮の後頭部に、

「そういえば」

 とマスターが柔らかな声をかけた。

「最近面白い話を聞いたんですよ。場所は都内の元私立中学だった建物なんですが、真夜中零時過ぎに現場を訪ねると妙な経験ができるっていう──」

「聞か、」

「せて!」

 煤原と間宮の声が見事に重なった。マスターが、にっこりと笑った。


おしまい

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歌姫 大塚 @bnnnnnz

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