ep.04 謝罪

 優しくしないで。

 傷だらけの拒絶は、だけど僕のやってきたことが彼女に届いていたことの証明でもあった。

 間違いから僕らは始まった。でも、全てが間違いじゃなかった。

 だからこそ僕と笠松さんの間に生まれた亀裂は深いだろうけど、でも間違いだらけじゃないのならまだやり直せる。

 やり直すんだ、今、ここから。


「笠松さんが……笠松さんが言ったことは全部正しいよ」


 僕の抱える虚しさも、僕の人助けの理由も、僕が笠松さんのことを誰でも良い誰かとして扱ったことも全部、全部。

 

「父さんも、母さんも、僕のことを認めてくれなかった」


 僕には自己主張というものを受け入れてもらえた記憶はない。

 お小遣いで買おうとした本を取り上げられたことがある——内容があまりにくだらなすぎたから。

 友達と一緒に遊んだことがない——習い事や勉強のせいで時間が取れなかったから。

 あるいは、自分の気持ちを言うことすら許されなかった——例えば水族館の帰り道のように。

 

「あの人たちはいつだって、シャカイテキナタダシサとかいうやつを振り翳して来る」


 だからこそ殊更にタチが悪いのだ。勉強だとか、成長だとか、そう言った綺麗な言葉で以って僕の気持ちを我儘として斬って捨ててくる。問答無用で。

 

「人間なんて正しさだけで生きられるわけじゃない。正しくないところが、人の一番大事なところなのにさ」


 でも、正しくあることを望まれた、望まれ続けてた。

 それでも僕の気持ちを無くすことなんて出来ないわけで、言い出せない気持ちと届かない諦観は心に大きな穴を生んだ。

 空っぽで、ただ風が通り過ぎていくだけの虚しさという穴を。


「あの人たちは変わらない。何を言っても受け入れてくれないんだから、変わってくれるわけがない」


 糠に釘、あるいは暖簾に腕押し。聞き入れてくれないから、言葉が届くことなんてないんだから、僕があの人たちを変えられるわけがない。

 

「それでも求め続けるんだけどね。例え実現不可能だと分かってる願いだとしても。虚しさってさ、そういう感情でしょ?」


 問うた先、笠松さんが若干身じろぎをする。答えようと、しかしそれを止めたような風情だった。

 何も言わなくたって彼女の言おうとしたことは分かる。だって彼女も僕と同じなんだから。

 叶わない願いを手放せない誰か虚しさから目を瞑れない誰かだから。


「決して埋めることが出来ない穴を埋めるために、僕は満たされる錯覚に縋った。笠松さんがこの屋上で独りぼっちになるように」


 人助けはちょうど良かった。一度助けてくれる誰かとして周囲に見られれば、あとは勝手に助けを求める誰かが僕のもとにやってくる。そうすれば、自分を誤魔化す材料には事欠かなかった。


「そうだよ、笠松さんの言う通り。誰でも良かったんだよ。これまで助けてきた誰かに思い入れなんてない。いつも助けを求めて来るあの子の名前なんて知らない。僕にとって、相談を持ち掛けて来る人たちは全員、誰でも良い誰かだったんだよ」


 思い入れなんて抱く理由がなかった。だって僕の気分を紛らわすことが出来れば良かったから。

 名前なんて覚える必要がなかった。だって僕にとって大切なのは困りごとだけで、困りごとを抱える個人なんて大切じゃなかったから。

 

「だったら――」


 笠松さんが口を開く。


「――だったら、私のことも見捨てれば良かったじゃない。どうしてこんなところまで来たの? どうしてあの子を一緒にいないの? どうして私を追いかけてきたの? 私は貴方の元から去った人間よ。貴方にとって無価値な私なんて、もう放っておけば良いじゃない……ッ!」


 叫ぶ。心を振り絞るように叫ぶ。

 僕を糾弾し終えた今だからこそ、笠松さんの言葉に嘘はない。

 あんなに感情を露わにした笠松さんが、まだ気持ちを隠しているようには思えないから。

 嘘も、欺瞞も、誤魔化しも、もう僕らにはない。剥き出しになった僕らの心にあるのは本音だけだ。

 だから言う。恥知らずで、厚顔無恥だろうけど、言う。


「笠松さん」

「何よ」

「ごめん、ごめんなさい」

「今さら、今さら謝ったってッ」

「それでも、ごめん」

「~~~~っ」


 頭を下げて、僕は笠松さんに言う。

 僕は笠松さんを傷つけた人間だ。それも擦り傷だとかそんな軽いレベルの話じゃない。体を引き裂くほどの致命的なレベルで。


「僕が笠松さんを深くなんてどころじゃないくらい傷つけたのは分かってる。だって、僕も笠松さんと同じ虚しさを抱える誰かだから」


「だから、そもそも顔向けなんて出来ないことだって、こうして笠松さんの前に立つことだって許されないことだって理解してるんだよ」


「笠松さんが僕と会話したくないことだって……分かってるんだよ。顔も見たくないって分かってるんだよ……っ」


 でも、だけど、それでも。


「僕は、まだ笠松さんと一緒に居たいよ」


 また一緒に映画が見たいよ。

 また一緒に水族館に行きたいよ。

 また一緒にカラオケで歌いたいよ。

 また一緒にゲームセンターで遊びたいよ。

 

「まだ、笠松さんの隣に居たいよ」


 傲慢で、傲岸で、自分勝手な思いで、僕は声を震わせたまま笠松さんに懇願した。

 みっともなくて良い、情けなくても良い、世間に顔向け出来なくたって良い。

 それでも僕は滲む視界と溢れる想いでそう告げた。


「確かに最初は打算だった。虚しさを抱える笠松さんが僕の虚しさを紛らわせるのに都合が良かったから笠松さんに纏わりついた」


「だけど、今は打算とか、自分の虚しさを紛らわすためにとか、そんな理由で笠松さんと一緒に居たいわけじゃない」


「一緒に居たいと、心の底から思ってるからどれだけ恥知らずと分かっててもここに来たんだ」


 笠松さんと一緒に居られなかったこの2日間。振り返るだけで憂鬱な気持ちになる。

 憂鬱になるくらいに、僕は笠松さんと一緒に居たいと思ってる。

 だから、身勝手な願望のままに僕は彼女の前に姿を現した。

 

「どうして私にそこまで拘るの。私じゃなくたって良いじゃない、私以外の誰かでも良いじゃない。これまでだってそうしてきたのに、どうしてそこまで私に拘るの……?」


 笠松さんが緊張を湛えた声で、そんなことを尋ねてくる。

 どうして、どうしてだなんて、そんなの決まってる。

 笠松さんと映画に行った時、笠松さんと水族館に行った時、笠松さんとカラオケに行った時、笠松さんとゲームセンターに一緒に行った時。

 僕は、僕は――


「――楽しかったから」

「え……?」

「楽しかったんだよ、本当に」


 水族館で一緒に魚やイルカを見て回った時、はしゃいでしまうくらいに。

 ゲームセンターで一緒にプライズを取った時、思わずハイタッチしてしまうくらいに。

 計算も、打算もなしに、楽しかったんだ。

 陳腐で、ありふれていて、特別でも何でもない感情。だけど、そんな当たり前の思いを抱けることが虚しさを抱える僕には、かけがえのない大切な感情だった。


「笠松さんは、楽しくなかった?」

「――――っ」


 視線の先で笠松さんが息を呑む。喉が震えた声が耳に届く。

 眉間の皺が今よりもっと深くなって、頬には引き攣りすら見えた。躊躇い、拒絶、それでも言いだしたくなる衝動。笠松さんの懊悩がありありと現れていた。

 

「楽し、かったわよ」


 やがて笠松さんがポツリと零した。

 そして、一度壊れた心の堰は、ほんの僅かな亀裂で簡単に崩れてしまう。


「楽しかったわよっ! 私だって、貴方と一緒に居て!!」


「そうよ、本当に楽しかったのよ。自分の虚しさを忘れられるくらいに」


「でも楽しかったから、私は……私は――ッ」


 忌々し気で、縋るような瞳で笠松さんは言葉に窮した。

 「私は」の後に続くのは、もう言われなくたって分かる。分からないほど、僕は笠松さんに無知じゃない。

 だから、手を差し出すつもりで笠松さんに呼びかける。


「やり直そう。嘘も、誤魔化しも、隠し事もない僕らで。簡単に許せるなんて思ってない、簡単に許されるなんて思ってない。それでも、いつかは認めあえる日が来ると信じて」


 出来るはずだ。今の僕らなら。

 同じ気持ちと虚しさを持つ僕らなら。

 今すぐには難しい。でも一度出来たんだから、また歩み寄ることだって出来るはずだ。

 一歩、笠松さんに近づく。その一歩に、彼女は後ずさろうとする。だけど、背中はフェンスで逃げ出す先なんかなくて、と金網が鳴っただけだった。

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