ep.05 少年少女、希望未来2つ

 笠松さんの顔に浮かぶのは拒絶ではなく怯え。

 彼女は喉を引きつらせながら、首を振った。


「やめて、やめてよ……」


 弱々しく漏れる声にはいつもの気丈さはない。拒絶する気力が残ってない……いや、違う。とそう思っているんだろう。

 笠松さんは喘ぐように言う。まるで溺れている人が必死に空気を求めるように。


「もう私は期待したくない。貴方に裏切られたくない」

「もう笠松さんに嘘を吐かないよ。僕は——」

「——だって、貴方の理由がずっと続く保証がないじゃない」


 笠松さんが切り込むような言葉で、踏み込んできた。

 

「確かに、今は楽しいかもしれない。でも、1ヶ月後も、1年後も、10年後も、その思いが続くわけがない」


「貴方が私と一緒にいるのに飽きたら? 貴方が他の女の子と一緒にいたいと思ったら? きっと私はまた1人になる」


「思い出が願い事になる瞬間なんて、もう真っ平なの」


 笠松さんが“狂犬”と呼ばれる振る舞いをして、人を遠ざけてきた理由。すなわち笠松さんの心にある恐怖が顔を出す。

 虚しさとは、実現不可能な願いを求め続けるということは、つまりそれだけ希望に裏切られ続けるということでもある。叶うかもしれないなんて甘い希望には、渇望してるからこそ縋ってしまう。簡単に希望に目が眩んで、期待して、それでも結局失って絶望するくらいなら最初から期待なんてしなければ良い。

 かつてあった希望に焦がれ、さらに虚しさ願いを深めるなんて辛いだけだ。

 分かってる。そんなことは分かってる。だって僕も笠松さんと同じだから。

 そう、だから、こうなることだって織り込み済みだ。大丈夫。


「笠松さん、聞いて」

「やだ」

「確かに笠松さんの言う通り、楽しい感情はずっと続かない」

「やめて」

「喧嘩だってするだろうし、すれ違うことだってあるかもしれない」

「お願いだから——」

「——でもッ!!」

 

 今度は、僕が笠松さんの言葉を遮った。声を張って、逃げようとする笠松さんを引き止めるために。

 彼女だって分かってるはずだ。自分の虚しさを知って、僕の虚しさを知っている彼女なら僕と同じ結論に至っているはずだ。


「でも、きっと僕らなら、虚しさを持つ僕らなら、互いに互いを補い合える。欠けたピースを組み合わせるように」


 僕らは叶わない願いを捨てられず、虚しさを抱え続けている。それは、決して埋めることが出来ない底抜けの空洞のようで、きっとこれからも埋めることが出来ないだろう。

 でも、紛らわせることだけは出来る。例えば笠松さんが独りぼっちで居続けたように、僕が人助けを続けたように。決して目を離せないけれど、目を眩ませて願いを忘れることくらいは出来る。

 「自分だけの愛を求め続ける虚しさ」を持つ笠松さんと「自分を受け入れる誰かを求め続ける虚しさ」を持つ僕。与えられることで紛らわせる虚しさと与えることで紛らわせる虚しさを抱える正反対な僕らなら、誰よりも強く繋がれる。


「無理よ、そんなの」

「無理じゃない」


 笠松さんだって理解してる。虚しさの確かな空漠が繋がりの強さを証明していることを、虚しさに苛まれているからこそ虚しさで成り立つ繋がりからもまた目を離せないということを。

 

「虚しさを決して忘れられない僕らだからこそ分かってるはずだよ。虚しさで成り立つ繋がりもまた、決して忘れられないものになるって」

「無理よ、そんなの。無理に決まってる……っ」


 俯いた笠松さんはそう断じる。だが、断じた言葉はあまりにも言葉少なで、論がない拒絶はそうであって欲しいという願望にしか思えなかった。

 もういっぱいいっぱいなんだろう。彼女だって分かってる。僕の提案が僕ら2人の最適解だって。それでも認めたくなくて、無理だと決めつけるしか出来なくなっているんだ。

 

「笠松さん」


 彼女の名前を呼ぶ。呼ばれた彼女は、俯いたままと体を震わせた。

 

「信じてみようよ。僕らを苦しめる虚しさをさ」

「でも……でも――っ。私には貴方を引き留め続けられるほどの……その、自信がないっ」


 一歩、近づく。笠松さんが見せてこなかった思いが顔を出す。

 いつか何処かのありふれた誰かが相談しに来た時のような物言いに、少しばかり嬉しくなる。

 彼女の場合は失敗してしまったけれど、今度は絶対に取りこぼさない。

 

「貴方だってもう知ってるでしょ。私がめんどくさい人間だって」

「めんどくさいくらいがちょうど良いよ。僕の虚しさからすると、多少振り回してくれる方が嬉しい」


 一歩、近づく。


「ほんとの私は我儘ばっかり言うし、自分勝手だし」

「ずっと言ってるでしょ、僕はそういう笠松さんになって欲しいって。自分のやりたいことをやりたいようになる笠松さんと僕は一緒に居たいよ」


 二歩近づく。


「自分が一番じゃなきゃ嫌だし、すぐ拗ねるし、子供っぽいし」

「そんなの知ってる。でも、それを分かったうえで僕は此処に来たんだよ」


 三歩近づく。


「独占欲強いし、目移りしたらとするし」

「なら別に問題ないね。これからは笠松さんから目を離さないつもりだから」


 四歩近づく。 


「捻くれてるし」

「それは僕も一緒だよ。虚しさを抱えてる人なんて、そういうものでしょ」


 五歩近づいて、ようやく彼女の前に辿り着く。

 夕陽の微かな光が残る薄暗闇の中。顔を上げない笠松さんを、僕は見下ろす。

 風が吹いていた。夜と冬の始まりを気づかせる冷たい11月の風が。心の空洞に染み入るような冷たさを孕む秋風が。

 もう終わりにしよう。素直になれなかった僕らの捻くれ曲がった道行きの終着点はすぐ目の前にある。

 笠松さんだって予感してるだろう。でも、それでもまだ笠松さんは認められないようで、深く、深く息を吸った。


「貴方に相応しいのはきっと、真っすぐ貴方を慕ってくれる人だと思う。例えば、例えばっ、のような、可愛らしくて、愛想が良くて、素直に慕ってくれる女の子と一緒に居た方がきっと、きっと――!」


 心をねじ切るような叫びと共に、笠松さんが僕を真っすぐに見た。その目端は微かな夕空の輝きを反射して一瞬だけ煌く。

 違う、そうじゃないよ笠松さん。他の誰かじゃない。他の誰かじゃ駄目なんだ。 


「僕は」


 この先、色んな人と出会うだろう。高校を卒業して、大学に行って、働き出して、いつか可愛らしくて、愛想が良くて、素直に慕ってくれる女の子と出会うのかもしれない。


「僕は、笠松さんが良いんだよ」


 でも、僕は出会った。笠松葵に出会った。

 訪れるかどうかもわからない未来いつかじゃなくて、現在いま目の前にいたのは笠松さんだったんだ。

 

「めんどくさくて、我儘で、自分勝手で、自分が一番じゃなきゃ嫌で、すぐ拗ねて、子供っぽくて、独占欲が強くて、目移りしたらとして、捻くれてる笠松さんが良いんだ」


 笑顔が見たいと思った。

 笑顔にしたいと思った。

 笑顔で居たいと思った。

 虚しさの辛さを知る僕だからこそ、笠松さんにはこれ以上苦しんでほしくないと思った。

 だから、これは理屈抜きの衝動だ。こみ上げるばかりの感情だ。虚しさによる繋がりなんて、ただの理論武装。僕の動機は、僕の気持ちは、僕のむき出しの声はたった1つ。


「好きだよ、笠松さん」

 

 拒絶されても、追いかけるくらいに。

 僕の前から去って行っても、無価値じゃないと思えるくらいに。

 もう二度と手放したくないと思うくらいに、


「好きだよ」

「に、2回も言わなくて良いっ」


 笠松さんが唇を尖らせる。気恥ずかしそうに、目を僕から逸らしながら。

 

「なんで、そんな恥ずかしいセリフを何の臆面もなく言えるのよ、貴方は」

「だって、ほんとのことだし」

「う゛――」


 素直に言うと、笠松さんが怯む。慣れない好意に動揺したようだった。

 

「……私、貴方のそういうところ嫌い」


 えぇ、なんでぇ……。 


「じゃ、じゃあ、僕は振られたってこと……?」

「べ、別に貴方のことが嫌いとは言ってないわよッ」


 わたわたと焦った様子で言い返す笠松さんに、僕はほっと胸を撫でおろす。 

 不機嫌顔の笠松さんは、こちらをちらりと見た。それから恐る恐ると言った様子で問うてくる。

 

「信じて、良いの?」

「信じてくれるなら、応える覚悟はあるよ」


 1ヶ月後だろうが、1年後だろうが、10年後だろうが、一生だろうが。笠松さんと一緒に居続ける覚悟は出来ている。

 笠松さんが拳を握りしめた。衝撃に身構えたけど、予想していた痛みは来なかった。代わりにと、可愛らしい感覚が胸を襲った。それから笠松さんは少し軽やかな声色で釘を差す。


「言っておくけど、この前みたいに他の女の子に色目を使ったら許さないから」

「分かってる。笠松さんこそ嫌にならないでよ」

「…………自信ないかも」

「そこは自信持って!」


 悲痛な叫びを上げた僕を、笠松さんは微笑む。揶揄われた、そんな感じがする微笑みだった。

 でも、うん、そんな笠松さんの顔を僕はもっと見ていきたいんだ。穏やかで、優しい時間を過ごして、虚しさを紛らわせるような包み込むような重たい時間の中で。一緒に色んなことをして、一緒に色んなものを共有して、色んな表情を、悲しみ以外の表情をその顔に浮かべてほしい。

 祈るような気持ちに胸に温かなものが灯る。今はとても小さくて、胸の中の空漠を吹き抜ける風にかき消されてしまいそうだけど、それでも確かに在る明かり。虚しさに押しつぶされないよう、大切にしていきたいとそう思える感情だった。


「こらーーっ、何してるんですか貴方達はーーッ!」


 優しい気持ちに浸っていると、水を差すような騒がしい声が屋上に響いた。

 なんだよ、誰だよもう。声のした方に僕らが同時に目を向けると、そこには小柄な女性の先生が。

 誰だろう? 見覚えがないから1年生か3年生の先生だろうか。大して迫力のない先生は、大した迫力もない体を大きく見せるように両の拳を真上に振りかぶると言った。


「屋上は立ち入り禁止ですよ! 下校時間も過ぎてるのに、なんでこんなところでイチャコラしてやがるんですかっ。さっさと出てってください。ほら、帰った帰った」


 なんだか私怨というか、嫉妬が垣間見える物言いだった。

 小柄な割にパラフルな女教師は、「お説教ですからね、お説教!」なんて迷惑な意気込みを口にする。

 1人盛り上がってる先生なんて無視して、傍らに立つ笠松さんに僕は言った。


「なくなっちゃったね、憩いの場所」

「いいわよ、別に。だって――」

「だって?」

「だって、もう私には必要ないもの」

「……そっか」


 未練のない晴れやかな声。明るくなった笠松さんの声に頬が自然と緩んだ。

 「ほら、さっさと来るっ」と痺れを切らした先生が声を荒げる。これ以上、待たせるとお説教が長くなりそうだ。

 僕と笠松さんは目を合わせる。それから笠松さんが吐いた嘆息に肩をすくめた。どうやら良い雰囲気で1日は終わってくれないらしい。

 屋上を足の裏で蹴って、急いで先生の後を追う。僕らの背中を見送る西の空には、もう秋の夕暮れは何処にも居なかった。

 

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