ep.02 亀裂
キーンコーンカーンコーンと鐘が鳴り、4時間目の現代文の授業が終わる。やる気のない先生は中途半端なところで授業をきって、ちゃんとした挨拶もせずに教室を出ていった。
「篤史~、お前は今日弁当か?」
修二が財布を片手にこちらにやって来る。
「いや、今日は購買」
「んじゃ、買いに行こうぜ」
反対する理由もない。リュックから長財布を取り出して、僕は席を立った。
「今日の曜日限定商品なんだっけ?」
「カツサンドだぜ。曜日限定商品で一番人気のヤツ」
「なら、今日は人が多そうだなぁ」
「争奪戦に負けて、コッペパンオンリーの寂しい昼飯にならないようにしようぜ」
修二の言葉に適当な言葉を返して、僕は幼馴染の後に続く。
っと、スマホを確認しないと。笠松さんから連絡が来てるのかもしれないし。
そう思って、右ポケットからスマホを取り出そうとすると、修二は、
「ちんたらしてると、良いヤツ取られちまうぞ」
なんて言って駆け出してしまう。
「あっ、こらっ、廊下は走るな!」
「そんなの今さらだろうがっ」
そんな捨て台詞だけ残した修二は、廊下の角を曲がってあっという間に見えなくなってしまった。自分が結構な筋肉マンだってこと自覚してほしい。下手に人にぶつかったら、軽い怪我どころじゃすまないだろう。
まったく……仕方がない。空腹で暴走気味な幼馴染を止めるために、僕も修二の背中を追いかける。
勿論、走らず早歩きで。早歩きで追いつけるとは思えないけど、全力疾走するわけにもいかないし。
スマホに掛けた手を引いて、僕は修二の後を追った。確かに早く行かないとまともな食べ物は残ってないけど、そんなに急ぐ必要もない。少なくとも味気ないコッペパン1個なんて最悪は免れるはずだ。
人と人との間を縫うように階段を駆け下りて、校舎の外にある購買へと急ぐ。近づくと共に漂ってくる甘い香りと聞こえてくる生徒たちの声に少しだけ気が逸る。実は結構出遅れたりしてるのかな。
そんなことを思いながら昇降口を抜けて購買前まで来ると、購買の列はそれほど長くはなっていなかった。
先に行った修二は、後ろから大体8人目くらいの位置。購買争奪戦においては、それなりのアドバンテージを取っていた。
「ほら、走ったほうが良かっただろ?」
「僕はそんなに食べ物に気を払ってないから、自慢げにされたところでなんとも思わないんだけどね」
僕はあまり食べ物には頓着しないタイプだから、そこそこのものを食べられればそれで良い。
僕が買える頃に残ってるのは、不人気な方の菓子パン系か総菜パンかなぁ。そんなことをぼんやり考えていると、
「篤史君っ、今いいかなっ?」
なんて少しばかり気合の入った声で呼び止められた。
振り返れば、自分の目線より低い位置に少女の頭がある。俺は真上から彼女を見下ろすと、こう問うた。
「何か用かな?」
聞いたところでどんな要件なのかは分かっているけども。
いつものように“お願い”だ。“佐渡川高校のヒーロー”なんて大層な渾名を背負っているおかげで、毎日のように誰かからお願いされている。おかげで笠松さんとの時間づくりも結構大変だったりした。
少女は言う。
「また、ね、……お手伝いっ、お願いできないかなっ?」
「いいよ。何を手伝えば良い?」
「前と同じ場所の草むしり……なんだけど」
「前と同じ草むしり…………あぁ、あれね」
笠松さんと出会った日のことだからものすごく印象に残ってる。草むしりの時、たまたま屋上を見上げたら、笠松さんと出会ったんだっけ。
もうあの日から2カ月が経とうとしてる。振り返ると、随分と早くて、随分と濃い2カ月だったなぁ。
そんなことを思っていると、どうやら顔に出ていたらしい。目の前の少女は怪訝な顔をする。
「篤史君、大丈夫?」
「ん、うん、大丈夫大丈夫。ちょっと思い出してだけだから」
心配性な少女はこちらを気遣ってくれたけど、僕は慌てて否定して、
「いや、本当に大丈夫だから! それで、いつ手伝えば良いの?」
「その、急で悪いんだけど、2日後の放課後とか、どう……かな?」
「2日後の放課後ね。いいよ、空いてるから――」
「――手伝おうか」と、そう続けようとした時だった。
「え……?」
なんて吐息が聞き慣れた声で僕の背中から聞こえてくる。その吐息には、間違いなく寂しさが籠っていて、繋いでいた手を離された子供のような、あるいは親に突き放された子供のような、そんな印象を受けた。
弾かれたように振り返る。視線の先には、笠松さんがそこに居た。
彼女は一瞬だけ泣き出しそうな顔をすると、すぐさまこちらを睨みつけた。
「…………っ」
「笠松さ――」
僕が名前を呼ぶより前に、笠松さんは矢も楯もたまらずといった様子で走り去ってしまう。
「待っ――」
待って。そう言おうとしたら、言葉が止まる。
待って、なんてどの口で言おうとしているのか。
待って、とかなんで言おうとしているのか。
来る者拒まず、去る者追わず。それが僕のポリシーだろう。
去る者なんて追わなくて、引き止めなくて、ずっとそうしてきただろうに。
ずっと、そうしてきたのに。
…………っ。
「大井君?」
こちらを案ずる誰かの声に今度は何も返せない。
返す余裕なんて、なかった。
「ごめん、ちょっと待ってて」
言い捨てて、返事は待たずに僕はその場を駆け出した。
足裏で地面を蹴って、購買に集まる生徒たちを押しのけて、僕は笠松さんの背を追う。
「笠松さんっ、笠松さん……!」
人の目も気にせず、彼女の名前を呼ぶ。
だけど、振り返りすらしなかった。脇目も振らずといった様子で、笠松さんは先へと行ってしまう。
(くそ……!)
何に向けた悪態なのか。それすら分からないまま悪態を吐く。
駆ける足の速さを速める。僕と彼女の距離が詰まる。手が届きそうな距離。僕は右手を伸ばし、振られる左手を掴んだ。
「……――!」
息を呑む音と共に、笠松さんが振り返る。と同時に、右手を大きく振りかぶって、僕の頬をへと叩きつけた。
パァァンッ、と乾いた音がする。
何が起きた? 思考が一瞬だけ白くなる。遅れてやってきた痛みがようやく何が起きたのかを理解させた。
叩かれたのだ。
突然の出来事に呆然とする一瞬の隙をついて、笠松さんは僕の手を振り払う。
彼女は言った。
「なんとなく、分かってたわよ」
抑えたくても抑えきれない。そんな風に絞り出した声色だった。
「あの鬱陶しい男に貴方の話を聞いた時から、なんとなく分かっていたわよ」
笠松さんが、自分の中にある確信を明確に否定したがっている。口調には、そういう感じがあった。
「えぇ、あれもこれも、全部が全部、そういうことだったってっ、分かってたわよっ!!」
だけど自分の内から湧く感情に耐えきれなくて、叫ぶように叩きつけたその言葉には、悲しみと怒り、そして悔悟が籠っている。
状況を飲み込めない僕は、おどおどと彼女に問いかけることしか出来ない。どうして笠松さんは怒ってるの?
「待って、笠松さん。どういうことか、説明を――」
「――『言葉にしてほしい』だったわよね。いいわよ、だったらお望み通り言ってやるわよっ」
半ば金切り声の笠松さんは、もう自棄になっているようにしか見えない。
まるで、もうどうすれば良いか分からなくて泣くしかない子供のようだった。
だからこそ、言葉に嘘偽りも飾りもない。本心しかない笠松さんは僕に思いを付きつける。
「貴方が私を気に掛けたのは、貴方が私を救おうとしたのは、全部――全部ッ、貴方の虚しさを紛らすためのものだった!!」
――――。
頭を鈍器で殴られた。そんな錯覚を感じさせるほどの衝撃が、僕の胸に響く。
思考が上手くまとまらない。まとまらない。まとまらない思考では、彼女の言葉を遮ることなんて出来るはずもない。
「貴方は私の、私が抱えるモノを知ってる。貴方は私が、私が求めているものを何か知ってる。ねぇ、だけど、貴方は、貴方はそうであり続けたのよね。いつもと同じように振る舞い続けたのよね。なんて茶番よ。なっんて茶番よっ。なんだっていうのよ、こっちの心をかき乱すだけ、かき乱しておいてっ。人を振り回すだけ振り回しておいてっ。自分勝手なのよ、貴方はっ。このっ、この……っ」
笠松さんが拳を振り上げる。だけど、その拳が振り下ろされることはなく、ただ下ろされた。
それが1つの境界だった。『これまで』と『これから』を明確に分ける、関係性の変化の証明。振り下ろされなかった拳は、これまで振り下ろされてきた拳のどの痛みより痛かった。
「貴方を、受け入れなければ良かった。そうすれば、こんな思いをしなくて良かったのに」
最後に僅かな震えを宿した声で告げて、透明な涙を目尻に浮かべた笠松さんは去っていく。
去り行く彼女の背を、引き留めることなんて出来なかった。
「待って」なんて言えるはずがなかった。
だから代わりに無言で拳を握りしめる。
降って湧いた感情を、握りつぶすように。
強く、強く。
■
僕が笠松さんの怒りの理由を知ったのは、ショックからようやく立ち直った放課後にスマホを確認した時だった。
『16日とかどうかしら。ボウリングとか行ってみたいんだけど。』
たった2文で、特別じゃないありふれた文章だけど、笠松さんにとっては大きな一歩。
僕はそれを蔑ろにした。
蔑ろにしたんだ。
「そういうことか、ちくしょう」
不甲斐ない自分自身に、思わず吐き出す。
だけど、でも、そうじゃない。
今日の出来事が僕と彼女の亀裂の理由じゃないことは分かっていた。
分かっていたからこそ、拳を握りしめることしか出来なかったのだから。
「ちくしょう」
今一度、吐き出したその言葉は、宙に溶けて消える。
何処へも、誰にも行き着くことなく。
吐き出した自分にしか、届くことなく。
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