ep.09 羨ましい

 まだ夜遊びをしていくらしい修二と別れ、僕と笠松さんはカラオケ店から自転車を転がして家に近い住宅街へと出る。

 西の空には夕闇すらなくて、重たい夜の闇が広がっていた。薄暗い路地には人の気配が一切なく、暗がりからは幽霊とか出てきそうな雰囲気だった。


「笠松さん、時間大丈夫だった? 結構遅くなっちゃったけど」

「大丈夫よ、これくらいの時間なら」


 とはいえ、女の子を1人で帰らせるには微妙な時間ではある。だから、水族館の時みたいに僕が彼女を送っているわけなんだけど。


「まったく修二が変な我儘言わなければ、もっと早くに解散できたのに」


 僕は今はいない幼馴染に毒づく。帰る時間が遅くなったのは、間違いなく修二の我儘のせいだ。どうしてあのタイミングで変なこと言いだすのかなぁ。

 

「あれだけ食べたがってたくせにその場で食べなかったし。なんだったんだ一体」


 正直、邪魔者である僕を追っ払って、笠松さんと話をしたかっただけのようにしか思えない。

 そうなると懸念点が1つ。 


「アイツに変なこと言われなかった?」

「…………さてね」

「それ絶対何かあった間じゃない?!」


 声を裏返して問うも笠松さんは答えてくれない。口を噤んだままだった。

 口を噤んだ、というのに違和感を覚える。彼女の秘密主義はいつものことだが、しかしそれにしたって返って来るのが、沈黙だけというのが疑問だ。こういう時は、不機嫌な言葉が返って来るのが常だというのに。


「何か変なこと考えてないかしら?」


 例えば、こんな風に。眉根を吊り上げて、と睨みつけて来そうなものだけど。


「ほんとに修二と何を話してたの?」

「だから、なんでもないって言ってるじゃない」

「いや、なんでもないというには態度が変な気が……」


 修二と何を話していたかについてだけどこかキレが悪い。なんというか、いつもの覇気がないというか、攻撃性が薄いというか……とにかく語気に力がないんだ。

 修二はおしゃべりだから、何か妙なことを言った可能性がある。

 とりあえず取り繕うために、僕はわざとおどけた様子で言った。


「修二の奴が何を言ったか知らないけど、あんまり気にしないで良いからね」

「…………」

「ほら、修二はあんな性格じゃん? だから、まぁ、変なことを言ったかもしれないけど、真面目に受け取らなくて良いからさ」


 修二はおしゃべりな分、アイツは適当なことを話すがある。笠松さんに何かを言ったとしたら、何かしらの与太を言った可能性を捨てきれない。

 そして、その与太は十中八九、僕についてだ。間違いなく。2人の間に共通の話題なんて、それ以外にあるわけがないんだから。

 まったく。どうせ僕について、あることないこと言ったんだろう。修二にも困ったものだ。笠松さんに適当なことを吹き込まないでもらいたい。

 そんな風に修二への怒りを募らせていると、笠松さんはぼそりと言った。


「……あんまり、アイツのことを悪く言わない方が良いわよ」

「え……?」


 意外な言葉が飛び出した。聞き間違えたかと思い、僕は反射的に戸惑いの声を漏らしてしまう。

 擁護するような言葉に、少し心が不自然な脈動を訴えた。とも、とも違う、鈍く、しかし本来ならば鋭いだろう痛みのような感覚。未体験の情動に、自転車のハンドルを崩しそうになった。

 でも、まぁ、僕には笠松さんと積み重ねた時間があるし? 修二よりは笠松さんと仲良いし! 笠松さんの秘密とか教えてもらったし!!

 そんな風に自分を鼓舞する僕の動揺には気づかなかったのか、笠松さんは変わらず続ける。


「自分のことを純粋に思ってくれる他人なんて、そう簡単に得られるものじゃないわ。そういう点で、私は貴方のことが、ちょっと……羨ましい」

「…………」


 羨ましい、羨ましいか。珍しい笠松さんの素直な言葉に、僕は少し考え込む。

 笠松さんが欲しているのは、親が子供に向ける無条件な愛情――つまりは、どんな時だって笠松さんを優先して、誰よりも笠松さんのことを思う気持ちだ。僕に修二がいることを羨ましいということは、つまりアイツは笠松さんの願望に類することを言ったということで、修二は僕に対する心配事とか言ったんじゃないだろうか。

 それは、それは不味い。だって、僕が笠松さんと会っているのは笠松さんを助けるためで、そんな僕の不足を笠松さんに知られてしまったら彼女に不信を抱かせることにならないだろうか。僕の目的を考えると、間違いなくマイナスにしかならない。

 う〜ん、参ったな。アイツが僕について何を言ったか聞き出したいけど、下手に突くと寝た子を起こしそうで怖い。笠松さんの言葉に僕が上手く返せなければ、それだけで僕ら2人の間に致命的な破綻をきたしてしまう可能性だってあるわけだ。

 どんな会話をしたのか知りたい。でも、知ろうとすると藪蛇になりそうで怖い。2つの思いの間で煩悶していると、笠松さんが口を開いた。


「――ねぇ」


 押し込むような語気に少し身構える。

 どんな言葉が続くのか。緊張に身を固くしながら、僕は笠松さんの言葉を待つ。

 笠松さんは躊躇っているようだった。何度か言い出そうとする息遣いが聞こえたが、しかし最後まで言葉が音となることはなかった。

 何度目かの息を吸う音の後、ややあって彼女はこう言った。


「…………やっぱり、何でもない」

「途中で辞められると気になるなぁ」


 少し茶化した感じで返したけど、内心は胸を撫でおろしていた。

 良かった。蛇が飛び出して来なくて。

 これが問題を先送りにしているだけだと分かっていても、それでも。

 良かったと、そう思える自分が居た。

 浮かんだもう1つの思いに目を瞑り、そう思えることが、何故だか嬉しかった。

 お互い無言のまま自転車を漕ぐ。何かを言い出す気にはなれなかった。何かを言い出すような雰囲気じゃなかった。


「じゃあ、私こっちだから」

「あ、うん。じゃあ、また」

「えぇ、


 いつの間にか辿り着いた十字路。笠松さんが僕とは違う方向へと自転車で走っていく。

 そんな彼女の背中を、暗闇に見えなくなるまでずっと見つめていた。

 1人きりになると、無視した声がより大きくなってくる。僕の心の、柔らかいところから聞こえてくる声が。

 良かった? 蛇が飛び出して来なくて。

 本当に?

 

「…………」


 ペダルを逆回転させ、位置をしっくりくる場所に持ってくる。

 漕ぎだすと、なんて寂れた音が夜の住宅街を包むとした空気に響いた。

 空では仄白い月と瞬く星が僕を見下ろしている。

 まだ秋だというのに、空は冬のようだった。

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