第4章 秋寒、少女、憂慮抱懐
ep.01 上の空
「――笠松さん、笠松葵さん!」
「は、はいっ」
ぴしゃりと名前を呼ぶ声に私は飛び上がる。
黒板の方を見れば、まだ大学を出たばっかりの女教師が怪訝そうにこちらを見ていた。
「どうしました、上の空で。体調でも悪いんですか?」
「い、いえ、なんでもありません」
「そう……ですか。では、こちらの問題を解いてください」
「……う、はい」
突然に指名された私は、教師の問いにたどたどしく、それでいてまくし立てるように答えて着席した。
かーっと顔が赤くなる。頬が熱い。クラスメイトの前で恥を掻いた私は、周知に耐えられず縮こまる。
まったく、まったくっ、何をしてるんだろうか、私はっ。
(ねぇ、笠松さんって最近丸くなった感じするよね?)
(篤史君がやってきてから、雰囲気柔らかくなったよね)
聞こえてるわよクラスメイト。授業中なんだから静かにしてなさい、ほんとに。イライラするから、今その忌々しい名前を出さないで。
そうだ。ぼーっとしてたのも、全部アイツのせいだ。あの鬱陶しい優等生クンの。
今日はアイツに誘われている。アイツが言うところの、楽しい思い出作りってヤツに。
まだ返事はしていない。Cルームに連絡が来たのが3日前で、それっきりずっと既読無視してる。
(さて、どうしようかしらね)
別に行かなくたって良い訳だ。もう私には、アイツに付き合ってやる道理はない。あの男には私の屋上の秘密をばらす気なんてないのだし、アイツの誘いに乗る必要はもうない。理由はもうない。いつも通り、いつものように、粛々と1人で居ようとすれば良い。
1人で居ようとするのは、もう私にとっては習性のようなもの。魚が海を泳ぐように、私が人の群れの中で孤立するのも自然なことなのだ。
だというのに、それでも少し、ほんの少しだけ逡巡してしまうのは、私の中に「誘いに乗ってやっても良いかな」なんてらしくない思いが胸の中にあるからだ。
まったく、どうしてしまったんだろう私は。ほんの少しでも迷うだなんて異常行動だ。浜に打ち上げられた魚のようで、胸に苦い思いが滲む。
水族館で言った自分の言葉がふと浮かび上がる。
『じゃあ、もう少しだけ付き合ってあげるわよ』
思い出して頭を抱える。我ながら、本当に何を言ってるんだろうか。雰囲気に呑まれただけと言えばそれだけど、雰囲気に呑まれている時点でもうおかしい。
そもそもなんで水族館に行ったんだろう。冷静に考えてみれば、乗る必要のない話だと言うのに、そうだというのに話に乗った。意味も、価値もないにも関わらず、自分の在り方を捻じ曲げてまで乗った。
おまけに煙に巻こうとしたことまで白状しちゃったし、情けないことに本音も――ずっと秘しておこうと思った暗い感情も――ぽろりと零してしまった。調子が崩されているにも程がある。そして、そんな自分のおかしさに後から気づくのは、なんだかゆでガエルを彷彿とさせた。まだ気づけてるから、茹で上がってはないんだろうけど。
アイツは一体なんなんだろう。出会ってからずっと調子を崩されっぱなしだ。私のペースがこんなにも崩されるのは初めて。いつだって私は私のペースを保ってきたのに。
思うに、アイツの空気の読めなさが私を振り回してる。普通の人だったら察してくれるところを、アイツはまったく察してくれない。意図してなのか、本当に気付いてないのか。そこまでは外から見る限りは分からない。ただ結果として、アイツが私の思いを無視しているという現状だけが確かだ。
私とアイツは一体どんな関係なんだろう。そんな問いには、すぐさまこう返せる。
馴れ合っている関係だと。
それは、私が一番嫌いな関係性だ。私が一番嫌悪してきた関係性だ。自分の中の虚しさがより強く感じられそうだからって、そんな理由で遠ざけてきたぬるま湯が今の私たちの間で横たわる名だ。
すぐに冷める温度は、私の周りにも広がり始めていた。あの男のおかげで私が作ってきたイメージは総崩れ。さっきのクラスメイトみたいにとっつきやすそうになっただのと言われる始末。こんなこと、今までなかったのに……っ。
考えれば考えるほど、苛立ちがふつふつと沸き立ってくる。なんなの? アイツはサンゴを食い荒らすオニヒトデか何か? 人の生活に土足で入り込んできて、現在進行形で滅茶苦茶にしてる。到底許せるものじゃない。
まったく……まったく、もうっ。あぁっ、イライラするっ。ここまで私を苛立たせておいて、詰めの甘さが透けて見えるのが一番苛立つ。やるなら徹底的にやりなさいよ。誘うって言っときながら、どれだけ時間空けてんの。もう11月6日よ? 11月6日。前から一週間近く経ってるじゃない。やることが中途半端なのよ。楽しい思い出作りがしたいなら、もっと早く言うとかさぁ――
「――って、それじゃ私が楽しみにしてるみたいじゃないっ」
自分の悍ましい考えに、反射的に立ち上がる。
机を叩いて、派手に音を立ててだ。
…………あ。
やって、しまった。気付いた時には手遅れだった。
2回目の失態に、先生は能面のような顔でこちらを見ていた。
「笠松、さん?」
「嫌、先生、これはその、違くて」
冷や汗を掻きながら口だけでそう弁明するが、しかし何が違うというんだろうか。自分で自分の言ってる意味が分からない。
クラスメイトの視線が痛い。突き刺さるような好奇の視線とはこのことか。人生で別に経験しなくても良いことを経験してしまった。無意味で嫌な経験って何なの。
いやーな沈黙が教室に落ちる中で、先生は淡々と告げた。
「笠松さんは授業終わったら私のところに来るように」
「……はい」
とりあえず、先生の怒りから解放された私は腰を下ろす。下ろして、この場に居なくても私を悩ませる優等生に怒りを滾らせる。
あぁ、もう全部アイツのせいだ。アイツの、あの馬鹿のせいだ。アイツが私に関わったばかりに、こんな前に遭うんだ。
これは一発殴らなきゃ気が済まない。脇腹に重たい一撃を抉るように入れなければ、私が受けた被害に釣り合わない――!!
あの気持ちの悪い微笑みを浮かべる優等生クンの苦悶の表情を想像し、今日もアイツの誘いに乗ることに決めた。
あの日の帰り道、別れ際に見た表情のことからは意識的に目を逸らしながら。
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