下の巻
翌朝になっても、あの出来事が夢のように思い出され、仕事へ行く道すがら昨夜の公園へ立ち寄り欅のところへ行ってみると、そこにはやはり真っ白なマフラーが引っかかっており、朝の日の下では深夜のあの鮮やかな白さが幾分薄れてしまっているようだった。
それでも、私はやはりあれが現実であったことに胸を撫で下ろし、そのまま会社へ向かった。
仕事を終えて帰宅すると、愛想のない言葉遣いはいつものことだが、何か良いことでもあったのか、その日の妻は妙にウキウキした顔で迎えてくれた。
いつにないことで、本当なら喜んで然るべきだが、私の方もいつもながら疲れと憂鬱を抱え込んでいる身なので、気づかぬふりで夕刊を開いた。
いかにも口数の多い妻へ生返事を繰り返しながら新聞をめくっていたが、三面記事の隅っこの小さな活字に釘付けになった。
現代においては別段珍しくもない種類のそれが、私には思い当たることがあって強烈な印象を与えたのだった。
未明に起きた身元不明の女性による鉄道自殺の記事で、私には何故かその女が昨夜のあの白いマフラーの彼女に思えてならなかったのだ。
私が洒落で口走っただけの、「汽車に抱かれる」という言葉が、女にそのような決心をさせてしまったのかもしれないと思うと、ひどくうしろめたかった。
「木には拒まれちゃったけど、汽車なら受け止めてくれるかもしれませんね」
女の言葉が脳裏をよぎる。
木に抱かれるという台詞も、首吊り自殺を意味していたと容易に推察できるし、それを果たせずマフラーだけを残して去ったというのも何となく肯けそうな話ではある。
妙に吹っ切れた足取りからも、彼女の固い決意が想像できた。
むろん、あの女が自殺したとは限らない。
写真などない小さな三面記事なのだ。
しかし、私にはどうしてもそうとしか思えず、やるせない気持ちでいっぱいだった。
私のいい加減な一言が、一人の女を死に至らしめてしまったのだ。
呵責に耐え切れず、新聞を閉じ、畳んでテーブルの上へ放り出した。
すぐ横に、妻の苛立たしげな顔がある。
「あなた、聞いてるの?」
怒りを押し殺したような声だ。
「ごめん」と、私は素直に謝った。「聞いてなかった」
「できたらしいのよ、赤ちゃん」
妻はまだどこも変わらない滑らかな腹をさするようにして言った。
私はどんな顔をしていただろう。
「そうか」
声に感情がこもらないのは、どんな感情をこめてよいやらわからぬからに他ならない。
私は妻の腹を珍しいものでも見るように眺めた。
妻にしてみれば、そんな私の反応に合点がいかないのも当然だ。
「それだけなの?」と、睨みつけてくる。
私は宥めようと肩を抱き、意味深に微笑んだ。
「きっと女の子だよ」
「何でわかるの?」
「何でもさ。その子には白いマフラーを買ってあげよう。きっと似合うよ。似合うに決まってる」
私は不思議そうに見つめている妻を抱き寄せた。
妻はされるがままにしていた。
「今夜のあなた……ちょっと変だわ」
「変でもいいさ。これが俺なんだ」
そう言って、もう一度妻を強く抱きしめてみた。
ツキアカリ 令狐冲三 @houshyo
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