中の巻
「寒いですね」と、声がした。
塊が話しかけてきたらしい。
私は返す言葉が見つからず、ただ肯いていた。
塊に見えた白い影は、暖かそうなコートであり、首に巻かれたマフラーだった。
マフラーの上には、青白い女の顔が載っている。
これはてっきり幽霊に違いないと思い、つい相手の足下を確かめてしまった。
黒い踵の高いブーツが見える。
脚はどうもちゃんとついているらしい。
女は機関車の窓越しに話しかけてきたのだった。
私はその姿を呆気にとられて見つめていたが、彼女も黙って乗り込んできて隣に腰を下ろした。
私は何を喋ってよいかわからなかったし、女の方も口を開かなかった。
無言のまま気まずい時間が流れ、私はやけにドキドキしていた。
「本当に冷えますね」と、女が同じような台詞を繰り返し、私は何となく相手の首に巻かれた白いマフラーを見ながら、
「そうですね」と答えた。
こんな時間に一人でうろついてるなんて、気が狂ってるに違いない。
自分のことを棚に上げ、すっかりそう思い込んだ私は、薄気味悪くなって逃げ出したくなったが、もはや腰を上げるタイミングを逸していた。
「こんな夜中に何をしてるんですか?」
私はわき上がる好奇心を抑えきれず、つい尋ねてしまったが、深い意味はなかった。
ただ、女の答えを適当に聞き流し、ほどよいところでここから立ち去ろうと考えただけだった。
しかし、彼女はすぐには答えず、相変わらず不気味なほどの静けさで何事か深く考え込んでいる。
この場から離れる絶好のチャンスだったが、私はまたしても女の答えが気になって、立ち去る機会を逸してしまった。
女は答えた。
「木に抱かれたくて……」
「は?」
「ほら、あそこに大きな欅の木が見えるでしょう。あの木に抱かれたかったんだけど、拒まれてしまったの」
人差し指が、少し離れた闇の中にぼんやり浮かぶ巨木を指し示す。
それは確かに、裸の大欅だった。
「木に抱かれ……」
私は言いかけて、いよいよこの女はいかれていると思った。
「そういうあなたは?」
女が問いかけてきたので、私は洒落たつもりでこう答えてやった。
「見てのとおり、汽車に抱かれに来たんです」
我ながら気の利いた台詞だと内心自画自賛しながら、私は面白半分に相手の顔を覗き込んだ。
すると、
「それで、どうでした?」
女は妙に上擦った声でこう言って、私の顔をまっすぐ見つめてくる。
この時初めて私は女の顔を正面からまともに見たわけだが、月光のせいか化粧けのないその顔は変に青ざめ、儚げで、とても美しかった。
美人に弱いのが男の性とでも言おうか、私はたちまち彼女がひどく哀れに思えてきて、何と言っていいかわからなかった。
女はそれでも、真剣な面持ちで私の回答を待ち受けている。
「拒まれてしまいました」
もうやめようと思いつつ、私は言った。
「そうですか」と、女は溜息まじりに呟き、ゆっくりと立ち上がった。
私もつられて腰を上げ、まるで手を引かれるように彼女の後について機関車から降りてしまった。
女はまっすぐ欅のそばまで行き、
「木には拒まれちゃったけど、汽車なら受け止めてくれるかもしれませんね」
誰にともなく囁き、首に巻いていた白いマフラーをそっと外した。
細く青ざめた首筋がむき出しになり、彼女は何を思ったかそのままそれを欅のてっぺんめがけて放り投げてしまった。
真っ白なマフラーは闇を包むようにゆっくり広がり、枝の先に引っかかった。
私はいいカッコしたい一心で登って取って来ようと思ったが、実際はひどく高いところでとても登れやしないのだった。
「もったいないですね、マフラー」
私が振り返ってそう言うと、女は寂しげに微笑んで、
「いいんです」と、首を振った。「私を抱いてくれなかったから、せめてマフラーだけでもと思ったんです」
それから、欅の周囲をゆっくり一回りして私の方へ向き直り、
「さよなら」
軽く頭を下げ、そのまま公園の出口へ歩き出した。
私はほとんど無意識に後を追おうしている自分に驚きながら、凍りついたようにその場で立ち尽くしていた。
女はもう振り返らず、足早に去って行った。
それは何か吹っ切れたような軽やかな足取りにも見え、私の脳裏には、「さよなら」という彼女の声が不思議な響きをもっていつまでも消えなかった。
私はしばらく女の残して行った白いマフラーを見上げていたが、いつしか無人になった公園や夜の暗闇などどうでもよくなってしまい、背中を丸め、とぼとぼと家へ帰った。
パジャマに着替え、何事もなかったように妻の隣へ滑り込むと、温もった褥へ冷え切った身体を横たえたのだった。
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